長い一日(原風景3)

ふたりの姉たちや近所の子どもたちは、朝になると大勢で集まり、幼稚園や小学校に向けて、にぎやかに出発します。一番年下の私は、かれらが出ていったあと みょうに静かになった家にとりのこされ、時間をすごしていました。1960年代、各家庭には、テレビも、電話もない、そんな時代でした。

そのころの私の記憶に残るのは、母の後ろ姿です。母は私に背を向けて、子どものための洋服を作ることに熱中していました。あるときは、編み機で作るニットカーディガンであったり、ミシンで作るワンピースであったりしました。そのころは今のように既製服がありませんでした。また「手作りのものを子どもに着せる心」や「その技術や熱心さ」のある母親ほど「良い母」として認められる、そんな時代でもありました。

母が「ものづくり」に没頭し始めると、ミシンにも、編み機にも、母の体にも、とにかく「危ないから絶対に触ってはならない」という時間が始まります。私は、幼児期の多くを、こうして母に近寄ることを禁じられて過ごしました。

退屈を訴えたり、かまってほしくてだだをこねようとすると、母は不機嫌になりました。聞き分けの悪い子はうちの子じゃない、そんな子はどこかよそのひとに連れて行ってもらうよ、と母は言いました。

拗ねても、くすんくすんと泣くふりをしても、母は変わりませんでした。私は、母にかまってもらうことをあきらめ、一日中、天井や箪笥の木目を見つめていました。箪笥の木目には、雲の上に顔を出した、太陽のように輝く神様の姿が、ふたり見えました。ミシンの足は唐草模様で、指でたどるとひまつぶしになります。いつのまにか心の中でそこは宮殿になり、空想のお姫様があらわれました。

ビー玉の中をのぞくと、そこには宇宙が広がっていて、その中には、さらに小さな、もうひとつの宇宙があるのです。そこにもまた、この宇宙と同じようなドラマがあるにちがいないと、私の空想は広がりました。ありあまる時間を、空想に費やすことを許された、そうするしかなかった子ども時代の、無限にも思えたあの一日の長さを、私はいまでも思い起こすことができます。

あれはたぶん昼寝から目覚めたときのことです。私は一人、誰もいない家の中で目をさまします。母を呼びますが、返事がありません。しだいに大きな声になり、泣きわめきます。家の外に出て、近所中に聞こえるような声で泣き叫ぶのです。すると母が、よその家から苦笑しながら出てきます。母は、何人かのご近所さんと一緒に、洋裁をしながらおしゃべりを楽しんでいたのでした。母は人と話すのが大好きな、華やかな性格の人でした。心をこめて育てた上の子たちが手を離れ、そろそろ自由になりたかったのでしょう。あの日々は、母自身にとっても、長い長い一日だったのだろうと、今はその気持ちを理解することができます。ただ、私自身の着ていた洋服の多くが、姉たちからのお下がりだったことと併せて、自分自身が、幼稚園に上がる前から、何よりも先に「ききわけ」を教えられた子どもだったことに、いまさらながら気づくのです。

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