『生前記憶』があるのなら

「生まれていないんだから 憶えているはずがない。」

みんなの思い出話にうなずく末娘の私を、たしなめるように父は言いました。

そのとき私の中に「じゃあいったい あれは何だったんだろう?」という困惑が広がりました。私の中には、確かな記憶があったからです。

それは家族の笑い声に満ちた風景でした。当時我が家に同居していた親戚のお兄さんが、ふざけてどじょうすくいの踊りをしてくれていたのです。

薄暗い部屋でした。ひょうきんなお兄さんのおどけた踊りと、それを見て笑い転げている家族の笑い声を、私は、はっきりと憶えているのです。

私はたしかに部屋のすみで、それを見ていたのです。

それなのに、私はいつも「お前はまだ、生まれていなかった。お母さんのお腹の中にいたんだから、憶えているはずがない。」と言われていたのでした。

何度そう言われても、納得できませんでした。いつしか子ども心に「自分が生まれる前の風景を、憶えていることもあるのかな」と『生前記憶』について考えるようになりました。

信じてもらえないかもしれませんが、私は、自分自身の生後100日の日のことを、憶えているのです。目の前にちらつくお化けのQ太郎の人形と、よりそって一緒に写真にうつる姉。古い写真で、それが生後100日の記念の日に、撮られた写真であることを知り、「このときのことを憶えている」自分に、自分でも愕然とするのです。

私は、憶えていることを「おぼえている」と、幼いころ正直に伝えていました。そして両親から、気味悪がられたり、「嘘つき」と呼ばれたりしたのでした。そしていつしか、私の言うことを、本気で聴いてくれる家族のいない家庭となったのでした。

やがて私は、「おぼえている」と言わない子どもになりました。信じてもらえないなら、せめて家族に嫌われないようなことを語る子どもになろうとしたのです。それは次の「わざとらしさ」を産み、私はあまり愛されない子どもになりました。

もしも、きわめて小さい頃の記憶を「憶えている」という子どもがいたら、それを「嘘」と決めつけるのは早いと、私は思います。『胎内記憶』という、科学的に証明されていない証言でさえ、その可能性はゼロではない、と思うのです。

お母さんのお腹の中で、自分のことをどんな風に噂されていたのか、その命が宿ったことを、母は喜んでくれたのか、または戸惑いを持って受け入れたのか。そんなことをお腹の子に「憶え」られていることに、不安や不都合を感じる大人は一定程度いると思います。そして、そんな大人たちが、子どもの証言を「非科学的」な「子どもの嘘」としてしまうのではないかと思うのです。

大人の都合で、子どもを悪者にするのは容易です。でも「科学的に証明されていない」ということは「可能性がない」というのとは違うと思うのです。もしかしたら、その可能性が科学的に証明される未来が来ないとも限りません。

子どもは本当は、なにもかも憶えているのかもしれない。大人はそれ位の気もちで子どもと向き合った方が良いと思います。

子どもの存在を、自分の所有物の様に取り扱うことをやめ、「確立した人格」として尊重する方が、良い親子関係を築くことができるのはまちがいありません。仮に 授かった命に戸惑うほどに、母になる心の準備ができていなかったとしても、いつの日かそれをそのまま子に伝え、正直に自分の人生について語ることができたら、子どもは親の人生を理解し、自分自身を大切にする生き方を始めることができると思うのです。

あのころ、胎内での私は、両親に男の子であることを待ち望まれていました。まだ若かった父と母は、お腹の中の私に、丈夫で元気な、たくましい子であれ と語りかけてくれたような気がします。

そのせいか、私はこんなにもタフで、打たれ強い人間になりました。生まれた性が、予定と違っていても、胎内にいたころのパワフルな思念は、私の中に染みついて、私の生き方を支えてくれました。「女の子らしくない」と周囲にひかれるほど、元気すぎた私の言動には、あの日の「胎内」での語りかけの影響もあったのかもしれません。

そう思うと、こみあげる可笑しさ、滑稽さとともに、あの誕生前の日々への愛しさも湧いてきます。

誰も信じてくれなくても、私は自分の記憶を信じます。世の中の子ども達の証言する『生前記憶』や『胎内記憶』の可能性も、あると思います。

いまはもう、自分のことを「嘘つき」だとは思いません。真実が真実であるために、もう「親の承認」など、必要ありません。

 

 

 

 

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