学校って

4月8日は、新学期。

日本中の子どもたちが、新しい生活を始める日です。

学校って、本当にいろんなことを教えてくれる、すごいところだ と感じたのは、上の子が小学生になったころでした。ろくに鉛筆も握れないくらい、何も知らないで入学したわが子が、毎日いろんなことを覚えて帰ってくるのにおどろきました。長年受け継がれたシステムや 先生たちの教え方がすごいんだろうなあと、ただただ感心したのを覚えています。
いかに効率的に、一度にたくさんの子ども達に、少ない人数の先生で教えるか、それが今の学校の、効率的なシステムを作り上げているのでしょう。
だから、子どもたちは、そのシステムに馴染むように訓練されていくのです。右向け右、前へならえ、右へならえ、周りに合わせて、あまり目立たないで、個性的な服装や言動は控えて、おかしいと思ってもむやみに主張しないで、ただただ学びなさい、というぐあいにです。
重松清さんの小説「青い鳥」の中で、ある生徒と先生が、学校について語り合うシーンがあります。日本中の学校の黒板の方向はすべて西にある。そう法律で決まっている、というのです。日本列島の小学校から高校生まで、あらゆる学校のすべての子どもたちが同じ時間に同じ方向を向いて座っている。想像するとちょっと気持ち悪いくらいの画一性が、学校という場所にはあるのです。

なぜ、西向きに子どもたちは座らされているのか、小説の中で先生は生徒にクイズを出しました。答えは、右手でノートをとるとき左方向が南になれば光があたり明るくて能率的だから、だそうです。「左利きの子のこと全然考えてないじゃないですか」と、重松清は生徒に叫ばせています。「学校ってサイテー」とも。

そう、学校とは、効率よくたくさんの子どもに一度にものを教えるために考え抜かれたシステマティックな場所なのです。だから、少数派の子どもたちのことまでは、そんなに考慮されてこなかったのかもしれません。

私は、左利きでしたが、左利き用のグローブは、その当時の体育の時間には、用意されていませんでした。だから私は、左で捕って左で投げるのが上手になってしまいました。体育の先生に「左きき用のグローブを用意してください」と主張するのが遠慮されるような空気、少数派が我慢したほうがいいのかな、というような空気がそのころの学校にはありました。

私は血液型もAB型で、これも少数派でしたから、その話題になると、やはりなぜか肩身の狭いような気持になりました。でも、本当は左利きでもAB型でも、本当はなんの問題もなかったのです。私は、もっと堂々としていてもよかったのです。

ことしの新学期は、新しい時代の幕開けでもあります。今後は外国籍の子ども達も増えるでしょう。これからの時代は、学校という場所がしなやかに進化して、少数者の子どもにとっても、のびのびと過ごすことのできる場所となりますように、いろんなタイプの子ども達の多様性が認められる場所となりますようにと、そんなことを願ったりしています。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です