疲れたこころを   

庭の蝉の声は、いつのまにか秋の虫の声に変わりました。ベルに倣って、耳をすませて、季節の変わり目に心を寄せています。そうすると、空気の感触、空と雲、世界のひとつひとつが「もう秋だ」と言ってるような気がします。

最近、朝の目覚まし時計の音を、「鳥のさえずり」のものに変えました。一日のスタートは森の中の響きではじまります。雨の降る日は、目を閉じて、しばらく雨の音に耳を傾けるようにしています。そうするとたいてい、眠りに落ちてしまっています。私は だいぶ疲れているようです。

「もう疲れた」と思うことがあります。それは私が歳をとってしまったからでしょうか。暑い夏を無事に生き抜くことに疲れて、ちょっとエネルギー不足になっているせいでしょうか、もう少ししたら、いまのこの ちょっと疲れた私から脱け出せるのでしょうか。

こころが何に疲れているのかというと、「不安になること、おびえること、不当なことに怒りをおぼえること」そんなことの数々に、慢性的に疲れ、倦んでいるのかもしれません。

このごろは、テレビをつけると、毎日毎日物騒なニュースが繰り返されていて、人の怒りや不安や、憎しみや恐怖が煽られている気がします。

「煽り運転の映像」が繰り返されすぎて、「将来ハンドルを握るのが怖くなりました」という10代の若い人に、「私は30年以上運転しているけれど、あんな煽られ方をしたことは一度もないですよ」と言うと、一様に意外な顔をされます。何百分の一の確率で起こる出来事を、毎日毎日繰り返し見せられ、人は この世をより恐ろしい所として認知するのかもしれません。

「国と国との政治家同士の諍い」も、最近ずっと流されていて、まるで隣の家の人とずっと喧嘩し続ける親の元に生まれた子どものような気分を味わっています。ネット上では、どうにかして人と人とがつながり合いたいと思う人のところに、ヘイトの声がかぶせられ、あちこちで炎上がはじまりそうです。

不安、恐怖、攻撃性 そんな感情は、安心、信頼、許容、の感情を凌駕するのでしょうか。

虐待も、いじめも、ヘイトも、炎上も、あおり運転も、パワハラも、国と国との諍いも、「自分基準の正義に突き動かされ、マウントとるために攻撃する」という一貫した空気に あやつられているような気がします。

「何が正しいのだろう」「どちらが間違っているのだろう」と、自分なりに一生懸命考えることの多い夏でした。でも、もう考えることに疲れてしまっています。

「正しくありたいですか、それとも幸せでありたいですか」若いころ、何かの本のそんな問いかけに、「正しくなければダメでしょう」と憤然と思ったものです。

今の私は、どうかな と自分に問いかけます。「ざわついたこころ」が静かに凪いで、澄み渡っていくのなら、そんなひとときを生きることに 惹かれます。

正しさにこだわり続ければ、なにかを裁きたくもなるから、そうすると こころが疲れるから、今は少し、「正しいかどうか判断すること」を休んでみよう。

こんなことを思いつくことが「歳をとる」ということだとするなら、「歳をとる」って悪くないのかもしれません。 澄み切った水面のような、私の好きだった年配の人たちの姿を思い出しながら、そんなことを考えます。

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