「猫を棄てる」考

村上春樹の「猫を棄てるー父親について語るときに僕の語ることー」を読みました。(すみません、作家の敬称を略させてください)

1983年 高校生だった私は、学校帰りのバスを待つ間に入った書店の棚に 当時は名前も知らなかった村上春樹の短編集「中国行きのスロウ・ボート」を文庫版で見つけました。立ち読みをするうちに 初めて見る 乾いた空気感の伝わってくる世界が気になり、そのまま買って帰りました。それから かれこれ40年ちかく、作家も長年よく書き続けたと思いますが、私たちも私たちで よく読み続けていると思います。

今回の著述では 初めてノンフィクションの形でご自分の家族について書かれていました。今回ほど作家村上春樹自身の人生に近づいた気のする作品は、過去にはありませんでした。

幼いころのある日、親子二人で猫を棄てに行ったものの その猫が自力で帰って来たこと、それを見て 親子して安堵し、再び飼いはじめたという思い出が 穏やかに語られる一方で、村上春樹が大人になり「自我を身に着けて行くに従って」「心理的な葛藤」を生じ、「関係はすっかり疎遠になって」「絶縁状態となり」「二十年以上まったく顔を合わせなかった」という確執のこと、亡くなる直前に「和解のようなこと」を行ったこと・・・・について、淡々と語られています。

そのお父さんもまた「親に『捨てられる』という子ども時代の体験を抱えながら、また僧ととして生きようとしながらも「戦争の担い手」として徴兵され、中国大陸で中国兵捕虜の「処刑」の執行にいかなるかたちでか関与した、という体験を心の傷として抱えながら、その体験を 次の世代へと手渡したのでした。

「中国兵は、自分が殺されるとわかっても、騒ぎもせず、怖がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。実に見上げた態度だった、と父は言った。彼は斬殺されたその中国兵に対する敬意をーおそらくは死ぬときまでー深く抱きつづけていたようだった。」(「猫を棄てる」原文ママ)

幼い少年時代に、その「中国大陸でのできごと」を聞かされた作家自身にも、それはトラウマのようなかたちとなって残り続けたのだと言います。

「中国行きのスロウ・ボート」を初めて手にしてから37年たちます。高校生の私は読んで強烈に惹きつけられながらも「でもなんで中国?」という疑問を持ちました。いつまでたっても作家は理由を教えてくれないまま、37年間、ずうっと「わからなさ」を心に抱えていました。

ここで、ひとつの答えを得て、長年のもやもやがとけていくのを感じます。「ああ だから中国なのか」と。だから村上春樹は、中国だけでなく、世界中のあらゆる人々への・・特に紛争に巻き込まれて生命を脅かされていく『壁の前の卵』のような人々への・・シンパシーをもちつづけているのか、とも思うのです。

この作品を通して、国籍や立場を超えた、命そのものへの深い敬意を息子に手渡した村上春樹の父の姿、亡くなるまでの人生を 深く目を閉じ、熱心にお経を唱え続けたその人の姿が、私たちの心によみがえることとなりました。国と国とがどんなに諍っても、どんなに人々がその運命を互いに翻弄されようとも、個人と個人との出会いは、国境を超えて、互いへの敬意を生む、そしてそれを誰にも妨げることはできないのでしょう。

さて、もうひとつの疑問は、「なぜ 今なの?」という点です。

お父さんの生前の、戦争に翻弄されたとはいえ、僧でありながら人の命を殺めたという大切な秘密を、ずっと心に籠めていた村上春樹は、「いま」「私たちに」この真実を差し出したのです。

「最後の叔父がー予科練帰りの叔父だがーが亡くなったのはつい何年か前のことだ。京都の通りで右翼の街宣車を見かけると「おまえらはほんまの戦争を知らんから、そうやって勝手なことを言いよるけどなあ・・・」と若者に説教をするような人だった。」(「猫を棄てる」原文ママ)という挿話を入れて。

「松の木を上って行った猫」が「怖くて降りることができなくなって」しまった話をつけくわえて、「降りることは上がることよりずっとむずかしい」という一言をそえて。

「夢中で駆け上ったものの」「下に降りられないまま、松の木の枝の中で疲弊し、声も出なくなり、時間をかけて衰弱して」・・・そんな白い子猫のような未来を、選んでほしくない と 作家は私たちに訴えているのかもしれません。

するすると 何の気なしに上るその前に、お願いだから立ち止まって考えてほしい と。

 

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