イギリスへの旅の話5 ずっとサヨナラ

ぎゅっと思い出の詰まったホスト・ファミリーとの生活に、終わりの時が近づいていました。日の長さが、一日一日長くなっていく季節でした。長い冬が終わり、街ではイースターの準備が始まっていました。

「いつかまた会いたいね、今度は ぜひ日本に来て」私がそういうと、彼らは口をそろえて「日本は遠いから無理だよ。それにとても高いからね」と言いました。「いつか」はもう来ない。そう思いました。そのころの世界は広くて、この別れは、もう会えないことを予感させていました。

出発の前の夜、ドロシーは私を呼んで語り始めました。

「若いころ、私も一人で旅をしたことがあるのよ。アメリカにホームステイをした。あれは私にとっては、ちょっとした冒険だった。あのころの自分のことを思うと、懐かしくて、あなたのことを、まるで自分のことのように思ってきたの。

あなたは、とても良い子だけれど、これからの人生を、生きるために、必要なことがある。それは『自分を信じて、自分のやりたいように生きること、自分のなかの望みを、何よりも大切にすること』よ。忘れないでね。」

涙を浮かべて、真剣に私に語りかけてくれた、あの夜のドロシーのことを、私は今でもときどき、思い出します。その夜は、なぜ、そう言われてるのかはわからず、ただ、大人から、一対一で真剣に人生を語ってもらった経験がなかったために、とまどいと、おもはゆさを感じていました。

最後の朝、ウエアタウンを旅立つ私を、一家が見送りに来てくれました。私のことを、本当に大切にしてくれた最初の家族でした。別れ際のハグ&キッスを交わし、バスに乗り込んで窓から手を振ると、せつない表情のカレンと、顔を上げないデボラが両親に肩を抱かれて、遠ざかっていきました。

あの夜、ドロシーは、なぜ私に、あんなことを語ったのでしょう。

一緒にいた日々、私は彼女の目に、どのように映ったのでしょうか。

「もっと自分のアタマで考えなさい、もっと自分で感じて、自分で決めて、自分で選び取りなさい、そして責任をもちなさい」そんな風に言われたような気もします。

決定を人にゆだね、好みもこだわりも特に無く、ひたすら空気を読んで周りに合わせようとする、自己主張のない日本人、YESは言うけれど、NOと言わない日本人、彼女の目に、あのころの私は、そう映ったのかもしれません。そんな私を 彼女はやさしく諭してくれたような気もします。

帰りの飛行機も、長い長い旅でしたが、私は起こったこと、出会った人、受けたカルチャーショックの数々が、まったく消化できないまま、混沌のなかにいました。

日本に戻り、久しぶりにカレーライスを食べました。食堂のテレビで久しぶりに見た中森明菜が「デザイア」を歌っていて、「なんだかちょっと見ないうちに、この人雰囲気変わったな」と思ったのを覚えています。

まるで私一人が何か、まちがった星にたどりついてしまったような気がしました。そのころちょうど日本の世の中はバブルへと一気に空気を変え、大量消費することがなによりもすばらしいというような時代を迎えていました。

古い革のカバンを「おじいちゃんのお下がりなんだよ」と当たり前のように通学用に使っていたカレンの誇らしげな姿を懐かしく思い出しながらも、私はそのことを誰にも伝えずにいました。

品物を吟味して「Too expensive」と子どもに言い聞かせながら、堅実に丁寧に生活を辿っていたホストファミリーの価値観など、話してもわかってはもらえないような気もしたし、その表現力も信念も 当時の私にはありませんでした。

学生生活の後半が始まり、私は3年生になりました。4月に新入生を迎えて学内は、また、にぎやかになっていました。でも私は、そのにぎわいから遠ざかり、ひとりで考え込む時間がふえました。

自分で考え、自分で決める、そこが足りない自分に、私は気づき始めていました。言葉にできないなにかが、そのころの私を覆っていました。

ただ、ひとつだけ私は、旅先で決めたことを実行しました。

ゼミの先生の研究室を訪ね、夏目漱石を専攻することを申し出たのです。

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