わたしたちの危機  その2

夫が大学病院に入院していた時期は、仕事が終わると、夕方の5時ごろから電車に揺られて病院に行き、夜の9時くらいに自宅に戻る生活をしていました。

そのあと私は、毎晩のように夫の母に会いに行きました。私と義母のふたりは、不安とはげましを分かち合うために、一緒に過ごす時間が必要でした。

私たちは、こたつに入ってお茶を飲みながら、大学病院の、重病患者に囲まれたベッドに残してきた、かわいそうな彼のことを語り合いました。そして、人生について語り合いました。

義母もまた、厳しい現実を、落ち着いてひきうけようとする人でした。大切な息子の重い目の病気に対して、彼女は、不安がり過ぎず、悲しみ過ぎず、落ち込みすぎずに、私を、そして自分自身を励ます人でした。こころ半分で回復を信じながらも、かりに先々どのような最悪な結果が訪れようとも、すべてひきうけよう、という覚悟のような思いが、義母と自分と、互いによく似ていることを感じました。

義母は、人生を思い通りにしようとは最初から考えず、「なるようにしかならない」という澄み切った人生への姿勢と、誰に対しても、干渉、支配をせず、そのかわり自分自身も、誰にも依存しない生き方を持つ人でした。言わば、精神的に自立した、「当たり前な大人」だったのです。

そのころ私は、誰よりも彼女のそばにいるときに、心が落ち着きました。生まれて初めて、家族と心が通い合うと言う感覚を教えてくれた、そんな義母との時間でした。

思えば、実家で、幼いころから見えない抑圧を受け、アイデンティティを破壊されたような私は、要求されたキャラ設定を演じ続けるのが精一杯で、自分の本心を家族とわかちあったことなど一度もなかったのでした。

あざとく計算高い私が、素の自分自身のこころを感じ、正直な気持ちを語るまでに心の健康を取り戻したのは、人生の途中に加わったこの家族のおかげだったのだと、そのとき、ふと気づいたのです。結婚して3年後に亡くなった夫の父、永年近くに暮らした夫の母、妹、そして夫は、私を、1人の人間として、初めて大切に、対等に扱ってくれた家族だったのでした。

恐らくそれは、人間として尊重されて育ったかれらが、当たり前の自尊心をもっていたからだと思うのですが、途中で家族になった私の中に、その当たり前の自尊心が根付くまでに、20年以上の年月が必要だったのでした。かれらはそれを、丁寧に辛抱強く、私に手渡してくれたのです。

そのことに気づいたとき、私は心底思ったのです。私にとっての大切な家族は、私が決め、私を育て、私が育てた この家族だ。この家族は、私にもう充分な幸せを与えてくれた、だから、もうこれ以上何も望まない と。

夫が回復しなくても、仮に仕事に戻れなくても、それでいい、私にはこの家族でもう充分だ、と。

退院して自宅療養に入った夫は、2月から3月の日々を家のなかでひとりで過ごし始めました。「働くこと」をあたりまえと思い、それに対して愚痴をこぼしていた夫にとって、人生初の「働けない」日々でした。

あのころ娘は、自分の父が病気休職に入ったことを、どのように感じていたのでしょう。まったく意に介さぬ様子で、学校生活を送っていました。娘も、どこか祖母に似て、腹のすわったところがありました。

春、一日一日と夕方が明るくなるような季節でした。私は仕事を終えると買い物をすませ、夫の待つ自宅に帰ります。長い一日を家で過ごした夫が、私を迎えてくれました。彼が少しずつその生活に慣れ、時には「味噌汁作ってみた」といいながら、しだいに生活者になっていく姿に、私は「これもいいな」と感じたものでした。

私たちが一番苦しいときに、夫の職場の仲間が励まし、助けてくれたことも忘れられません。「必ず元気になってくれるまで、僕たちは待ってますよ」と、わざわざ家を訪ねてくれた同僚、世界のすべてが二重に見える中、恐る恐る復帰の練習をし始めた職場で、丁寧に迎えてくれた同僚に対する感謝は、夫の人柄を深めてくれたように思います。

そんななか、大学生の息子は、さらに私をおどろかせました。大学の春休みを利用して、一か月間のバックパッカーとして、インドを旅したいと言うのです。聞いただけで胃の痛くなるような話でしたが、私たちは送り出すことにしました。

「行かせてやろう。もう、あいつの時代や。」

夫が休職をして、家から一歩も外に出ないでいた単調な毎日に、やがて鮮やかな彩りが生まれました。テーブルの上のパソコンのスカイプに、インドを旅する息子の姿が現れはじめたのでした。

雪を被ったヒマラヤ山脈を臨むダージリンの町、ガンジス河、デリー、コルコタ、タージ・マハル、砂漠のキャンプ、青い街ジョードプル、金色に輝く町ジャイサルメール・・・。旅する息子を語り合いながら、夫は次第に元気を取り戻しました。「やるなあ、あいつも」と嬉しそうにつぶやきながら、まるで自分も一緒に旅をしているかのような表情をしていました。

初めての一人旅が、インドとは、息子もまた、私以上の無謀な輩でした。旅先でお腹をこわしたり、シャツを盗まれたり、値段交渉の末にだまされたりしながら、それでもたくさんの出会いを重ね、お土産話を持って無事に帰ってきた時は、彼は何倍にも成長し、タフに生まれ変わったようでした。

病気休職から復帰しても、世界が二重に見えていた夫の、こころの口癖は「心を強く」だったそうです。数年たって角膜の傷が癒えて、世界が普通に見えるようになったころ、彼は私にそれを教えてくれました。

あれから7年がたって、夫は復帰することのできた仕事を大切に続けています。ただ、働き方は少し上手になって、趣味や健康を犠牲にしないようなバランスに変わりました。

わたしたちの危機は、たしかに私を痛めつけました。あまりの心配で、胃から血が出そうでした。

それでも、いまは思うのです。あれは、私たちにとって必要なできごとだったのではないか と。夫の病気と休職がもたらした非日常の日々は、まるで私たち家族にとって、さなぎに篭った新しい命が、殻を破って生まれ変わるような経験でした。あの試練が、あれからの私たちに、だからこそ得られた素晴らしいものを与え続けているような気がしてならないのです。

 

 

 

 

 

 

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