なんでもない日

子どもの頃、毎日はただ、朝に目覚めて、昼がすぎ、日が暮れて一日が終わりました。晴れていれば空気は気持ちよく乾き、雨が降れば空気はやさしく湿っていきました。夏の日の夕立、冬の日のちらつく雪、それらの発する空気感を思いきり吸い込みながら、動物のように私は生きていました。

まだ、私の中に、時計はなく、カレンダーもなく、予定も、未来の予想もありませんでした。あのひとときを私はよく覚えています。

父は「仕事」に行き、母は「家の仕事」をし、姉たちは「学校」に行っていました。私だけが何もすることがなくて、ひまでした。母に「私はなにをすればいい?」と聞くと、母は「ひとりで遊べばいい」と答えました。

ぼーっと空をながめたり、絵を描いたり、読めない本をながめるのが、上手になりました。「ひまな時間」が人に等分に与えられるのだとすれば、幼い頃の私には、一生分のひまな時間が与えられた気もします。

なんでもない日。未来の予定なんてない、単調な日々は、少しさみしく、自由でした。

私の人生の最終場面で、時計やカレンダーの見方を忘れた頃、再びあのような時間が朦朧とした私に戻ってくるのなら、それも良いなと思います。

やがて私は子ども時代をすぎ、時計の見方を覚えました。大人になるために、私は「しなければいけないこと」を自分に課すようになりました。ひとつの課題を仕上げたら次はこれ、次はこれと、いつでも私には「次のミッション」が課せられるようになりました。子どものころ、誰にも相手にされない時間を永く過ごしすぎた私は、そんな「世の中からの要求」を、喜んで引き受けました。私のカレンダーは、予定で一杯になりました。

2000年を過ぎ、世界は変わりました。いつのまにか私たちの生活は、グーグル社やアップル社の提案する生活様式に馴染んでいきました。私にとって何よりも大きく変化したのは「予定・予約があたりまえの社会」になってきたことです。

息子がスマホを私に持たせてくれたとき、同時に娘が、「お母さん、今の時代は、なんでも予約しないとダメだよ」と教えてくれました。3か月後の飛行機チケット、ホテルの予約、イベントのチケット、見たい映画の座席予約、歯医者、美容院、今から向かうレストランでさえ、手元のスマホから予約を入れるのが当たり前の時代になったのでした。

そんな時代の変化になじみ、私のカレンダーは、半年後、一年後の細かい予定で一杯になっていきました。むしろ予定がないと不安なくらい、未来の隙間を埋めながら生活することに慣れていました。

きっとグーグル社やアップル社の人たちは「予定」が大好きな人たちなのでしょう。世界中の「そんなに好きでもない」人々を巻き込んで「予約が当たり前」の世界が、あっというまにできあがりました。グーグルマップのあちこちに「宿泊予定のホテル」を鋲でとめながら、私はここ数年を生きてきました。

一年前の春、コロナが世界を塗り替えたとき、私は、約半年分の飛行機やホテルの予約を順々にキャンセルしました。カレンダーに書き込まれた予定たちは次々に塗りつぶされ、「予定のない日」「予定のたたない未来」が増えていきました。

3月です。新年度の人事異動を控え、一か月後に自分がどこにいて何をしているのか、誰と仕事をしてるのか、予定のたたない季節です。

「3か月後」の計画を立てないといけないような気がするのに、それができない感覚に、私以上に苦しんでいるのは、きっと「デジタル・ネイティブ世代」の人々なのでしょう。

5月の予約も入れられない、夏の予測もできない、そんなこと、私たちの若い頃は当たり前だったはずです。予約を入れなくても、大丈夫、世界は逃げて行ったりしないことを、今の若い人たちにも気づいて欲しいのです。

予定・予約があたりまえだと思っていたのは、実はここ最近のデジタル社会に染められた「人類の錯覚」にすぎません。本来 人生とは「なんでもない日」のつみかさねであり、予定なんか、あってもなくても、今日はこんなにも素晴らしく、新しい季節は私たちに優しいのです。

なんでもない、なんにもしない、時間を気にせず、ただ、ぼうっと空を眺めることが許される一日、季節の空気を思いきり吸い込んで、何も考えず、動物のように過ごす一日。

約束のない日には、誰にも会わず、誰にも気兼ねせず、前からやりたかったことを自分のためだけに、やっていい日にしましょう。きっと、限りなく自由で、素晴らしい一日になるでしょう。

 

 

 

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