花のように育てたい

「天国みたいです」というコメントとともに、どこまでも広がる青い花畑が手元にとどきました。関東に住む娘からのものです。

誰かが丹精してくれた「花」のめぐみを遠慮なく吸い込み、「花」の与えてくれるエネルギーにふれた日は、ただただ嬉しく、この世界への感謝があふれます。やっぱり私は「花」が好きなのだと思います。

この春、新しい職場では、周りの人がほとんど年下になりました。息子や娘よりも若い同僚、孫のような子ども達に囲まれ、自分の仕事が「育てる」というお役目であることに、あらためて気づきます。この年齢に至らなくても本当は、人に出会い生き続けると言うことが、すべての人にとって「育てられ」「育ちあう」日々の連続なのでしょう。

この春に出会った子ども達は、緊張しつつも「やっと仲間に出会えた」喜びとともに、若々しい荒削りな素顔を見せてくれます。子どもっぽい受け答え、失礼な態度、それすらも愛しく感じ、やがて成長していく彼らの、これからの姿とのギャップを楽しむため、今の未熟な姿をよく見ておきたいと思うのです。それはまるで、芽を吹いたばかりのやわらかい植物の姿に似ています。

「いのち」の同輩の中で、私は実は「花」や「木」などの植物に対して、ある種の敬意を感じています。物言わず、たくましく、摂理に忠実に、営々と長い時を生きる植物たち、そのいのちを全うする姿に 学ぶことが多いのです。

充分な時間と、良い環境を与えられた花々は、誰に何も言われずとも、どんな花を咲かせるかを自分自身で知っています。「人」を育てるときも、「花」を育てるときのように、ゆっくりと見守りながら、その成長を待ちたいものだと思います。

「今は荒削りな子どもたち」も、本当は、私たち大人が何も言わなくても、環境さえ整えば、この先どんな成長をするかをさとるときがくるのです。

たとえば、新入生の言葉づかいが乱暴だったときに、「最初が肝心」とばかり、その場で注意して言い直させるという場面を、よく見かけますが、実はそんなことをしなくても、周りの先輩や大人たちが、環境として「おだやかに、やさしく、丁寧な言葉づかい」を見せていれば、新入生は、注意されなくても、やがて自分でゆっくりと育ちゆくのです。「最初が肝心」主義のもたらすものは、「拙速な正しさの誇示」というお手本になってしまいます。まして「高圧的な言い方」や「言葉の暴力」などはあってはならない「悪い環境」です。

「花」を育てるときに、「そっちじゃない、こっちだ」と方向を指示したり、「やりなおし!」と命令したりは、誰もしません。ただただ見守り、適量の水をかけ、ちょうど良い光をあてるでしょう。どう咲くのかを花自身が知っていることをわきまえた上での、育てる側の穏やかな姿勢が、花のいのちを真に支えていくのです。

人を育てるときも、できればそんな風でありたいと思います。急いで手出し、口出しをされなくても、本人の力でわかるときがくる、その成長を邪魔しないよう、ただただ大人が「良い環境」の一部となって、いきいきと人生を楽しむ姿を見せながら、「花」のように「人」を育てたい、そんなことを考えます。

 

 

 

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