犬と暮らせば   その8

犬が人間の7倍のスピードで年をとることは知っていました。でも、心のどこかで ベルはずっと私たちの傍にいてくれる気がしていました。私が老人になった日にも、よぼよぼの老犬になったベルが、まだそばにいてくれるような、そんな未来を思いえがいていました。そんなはずはありえないことに、私は目を向けていなかったのです。

だから彼女が9歳の誕生日を目前にして、急に元気がなくなってきた時、初めてあわててその齢を数えました。人間ならば還暦を過ぎていて、体をいたわるときなのだと気づいたとき、すでにベルの病気はかなり深刻な状態になっていたのでした。

ベルが、苦しそうな息をして、ぐったりとし始めたとき、私たちは何度も病院に連れていきました。かかりつけのお医者さんに、毎年入念な予防と健康チェックをしてもらっていたのにも関わらず、彼女の体にわずかに残ったフィラリアの芽が、次第に呼吸器や他の臓器を弱らせているのだと、先生が見立ててくれたときには、もう回復の見込みは残されていませんでした。先生は、とても言いにくい様子で、ベルの命がそう長くないことを私たち家族に伝えようとしてくれましたが、私たちのうちの誰一人として、その事実を受け止めようとするものはありませんでした。病院に入院させれば治るような気がして、入院させて毎日お見舞いに行きました。3回目の入院のとき、先生は「おうちで見てあげた方が」と言い辛そうに告げました。

ベルが仔犬達と過ごした玄関スペースが、ベルの最期の日々を過ごす場所となりました。横になり、じっと病に堪えるベルを、あのころとは違う思いで、家族みんなで見守りました。ドックフードを受け付けなくなれば、ペースト状のフードを買ってきて、「これなら」と口にもっていってなめさせてみました。子どもたちも、口に水をふくませようと四苦八苦していました。

上の子は大学受験、下の子は高校受験の冬でした。それぞれが、自分の旅立ちの準備をしていました。それぞれが自分のトンネルを歩いていました。子ども達も静かに自分と向き合っていましたが、苦しいはずのベルもまた、何一つ文句を言わず、静かに闘っていました。最後まで、ベルは、私たち飼い主に対して、黙ったまま、信頼と愛情に満ちた目を向けて、そして閉じました。

ベルが亡くなったのは3月の下旬、庭の桜が咲きかける頃でした。子どもたちの進学が決まり、息子が慌ただしく引っ越しの準備をしていた日のことです。約半年の闘病生活でした。

まるで子どもたちの行く末を見送るまで、我慢してくれたようだね、と友人に言われました。

ベルは生きている間、いつもいつも私を見上げて、命令を待っていました。私が庭仕事をしていると、体をすりつけてきて、「こらっ、あっちいけ」と私に邪魔にされても、全然落ち込まず、すねず、へこたれずに何度でも甘えてきてくれました。

家族の末っ子として、最下位のまま、反抗期もないまま、不平を言わず、すべてをあの世にもっていっていきました。

私の人生において、犬は怖いものではなくなりました。私にとって犬とは、限りなく優しい存在になりました。

そればかりではありません。ベルは私に「ただ生きる」ということの意味を教えてくれたように思います。命には限りがあること、その日は突然くること、人生は意外とはかないことも知らせてくれました。

それでも、今日の日を「ただ生きる」こと。過去を思い出して悔やんだり、未来を思って心配したりすることもしない、誰かと自分を比べて落ち込んだり、誰かに嫉妬してねたんだり、腹を立てたりもしない、今日をふりかえって反省したりも、たぶんしない。風の心地よさを感じ、雨の音に耳を傾け、ベルはただただ素朴に「今日を生きる」ことの単純さを、その喜びを、その尊さを、身をもって私に教えてくれたような気がするのです。生きるって、それでいいのかもしれません。

いまベルは、お骨になって、庭の一隅に埋まっています。そこは 生前のベルが一生懸命穴を掘っていた場所です。叱っても、埋め戻しても埋め戻しても、懲りずに同じ場所に深い深い穴を掘り続けていました。家族全員一致で「本人が掘った穴に入れてあげよう」ということになりました。

「本当に自分の墓穴を掘ったやつ、後にも先にも初めて見たよ」と苦笑しながらみんなでベルのお骨を埋めました。金木犀の樹の足もとです。上からそうっと土をかけました。もう二度と、誰にも 掘り返される心配はありません。

 

 

 

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