犬と暮らせば  その1

「いちど犬を飼ってみればいいよ」その頃働いていた職場の、先輩の女性が、優しい口調で私にそう言いました。「そしたらもう 犬を『怖い』と思わなくなるから」と。

そのとき、私はその人とお弁当を食べながら「子どもたちが犬を欲しがるけれど、私 犬が怖いんです」と語っていたのです。

そのころ、子どもたちは長いこと「犬飼いたい、欲しい」と私にせっついていました。テレビの動物番組を親子で見るのがその頃の楽しみでした。

夫は根っからの犬好きで、犬と暮らす楽しみを知っているひとでした。

私はといえば、どうしても犬への恐怖心が抜けなくて、よその犬にほえられると足がすくんでしまうため、「犬のいる家の前は歩きたくないな」と思うほどでした。

「自分の犬を持てば、犬の気持ちがわかるし、飼い主になってしまえば大丈夫、よその犬も怖くなくなるよ。思い切って飼ってごらんよ」と優しく言ってくれた彼女の言葉が、私を少しだけ勇気づけました。

そのころ私は35歳でした。

2人目の子どもも少し大きくなり、「さて3人目の子どもをどうするか」と、考え始めたころのことでした。

実家近くに住んでいた2人の姉は、すでに3人ずつ子どもを持ち、いつのまにか「3人の子どもを持つこと」が当たり前のような空気が実家にはありました。母も、1970年代に「3人では子どもが多すぎる」と私にもらした父も、そんな大昔のことはとっくに忘れてしまい、私に「3番目を」と言い始めていました。

私はと言えば、自分自身が3番目の子どもであるにも関わらず、その まだ見ぬ3番目の子どもを産んで育てるイメージが、どうしても湧いてきませんでした。私にとって5人家族は、いつも4人対1人で、最後のひとりは 孤独でした。

どんなに頑張っても、その子がかわいそうなことになってしまうのはないか、という未来しか私にはうかびません。末っ子を上手に愛する自信も全くありません。そもそも、意地でも3番目の子どもを産んで、無理して愛するなんて、そんな不自然なことをする必要があるのだろうかと思い始めました。

もういいや、3番目の子どもを持つことも、その子を愛して育てることも、もっと心の広い、余裕のある人に任せて、私は ただ一生懸命、2人の子どもを育てよう、そう心に決めたときでした。

ふぁっと空いた3番目の位置に、「犬」の存在が入り込んできたのです。

・・・犬を飼ってみようかな・・・

子どもたちと、夫の願い通り、職場の先輩の言葉の通り、思い切って一歩踏み出してみようかな、ふっとそう思い立って、子犬を買い求め、我が家の5番目の家族として迎え入れたのです。2003年の春のことでした。

思い返すと、あれは私には 大きな決断でした。

それからの犬と暮らした日々は、私の人生にささやかな彩りをもたらしました。

私の中にあった「子どものころからの、犬にまつわる悲しい記憶、犬にまつわる恐ろしい記憶」の上から、違う思い出を上書きし、犬に対する愛おしさ、感謝だけが、私の人生に残ることになったからです。

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