いとこ そして伯母の最期について

1992年は、私にとって変化の年でした。3月に引っ越しし、4月に転勤して新しい職場に移り、5月に結婚をし、10月に妊婦となりました。大変ではありましたが、前に前に進んだ年でした。ただ、その一方で、どうしても忘れられないこともありました。それは、同じ1992年の2月に起こった、母方の本家に住む、年若い いとこの突然死でした。

母は1938年のとら年生まれで、姉と兄と妹がいました。母は4人きょうだいの3番目でした。母の実家は以前も書いた通り、山里の農家でした。母は自分の実家のことを「わたしのざいしょ」と呼んでいました。祖父が亡くなり、母の兄である私の伯父が当主となりました。やさしくて控えめな伯母と、一女二男の三人の子どももいました。この3人のいとこ達は、みんな明るくて優しい人たちでした。一番下の男の子はヒロキ君といって、私のひとつ年上で、明るくて美男子で、冗談好きな男の子でした。

1992年、私は26歳で、仕事をしながら結婚の準備をしていましたが、ちょうど同じころ、27歳のヒロキ君も 実は結婚に向けて、フィアンセと毎週お休みの日に打ち合わせをしていたそうです。平日は彼は夜勤を伴う仕事をしていて、現場のリーダーとして残業の多い日々を送っていたようです。そのころはまだ「ブラック企業」はおろか「過重労働」という言葉すら、あまりきいたことのないような時代でした。

ある朝、時間になっても起きてこないヒロキ君を、お母さんが起こしにいくと、ヒロキ君はベッドの中で動かなくなっていたそうです。恐らくあまりの苛酷な生活に、体のどこかが機能不全を起こしたのだろうということでした。あきらかに「過労死」だったと思うのですが、あのころはそんな概念すら田舎にはあまりありませんでした。

私はそのとき、ちょうど5日間の県外出張に行っており、携帯もない時代のその旅から、帰ってきたときには、葬儀さえ終わっていましたので、すべてはあとから聞いた話です。

後日 母の実家を訪ね、お仏壇のヒロキ君の写真に手を合わせると、そばで見守っていた伯母が「ありがとうね」と言いました。突然息子を喪ってしまった伯母は、計算すると、今の私と同じ年だったのでした。人生の不条理にうたれ、悲しみにくれ、ずいぶんやせてしまっていた伯母は、それでも静かで、とても優しい目をしていました。この世は思い通りにならないことを、始めから知っている人の、深い諦念にしずんだような 彼女のまなざしでした。そして、誰よりもつらいはずの彼女は、遺された息子のフィアンセの今後の人生を心配していました。

いま思えば、あのとき、伯母のこころはすでに この世に見切りをつけていたのかもしれないような気もします。それほどに、本家の長男の嫁である伯母をとりまく空気は、きびしいものであったように、今の私には思われてなりません。

私の母を含めた3人の小姑たちは、そろって声の大きい人たちでした。彼女たちは、若い甥の死を悼み、悲しみ、悔やみ、なげきました。そして、ヒロキ君が亡くなり、残されたヒロキ君のお兄さんも「いちど結婚したものの子どももなく離婚して独り身になってしまった」ために、その行く末を心配し、憂い、何度も集まってはこう繰り返すのです。「このままでは、わたしらのざいしょが 途絶えてしまう」と。

それから20年近く経った2011年の秋でした。ちょうど今くらいの季節でした。伯母が、一切の食べ物を受け付けなくなってしまったことを、私は母からきかされました。

不思議と私はおどろきませんでした。ああそうか と思い、でもきっと もう遅い、誰も もう伯母さんを助けられないと、私は深く悲しみました。可哀想な伯母さん、かまどのある台所で、私を迎えてくれたのに、いつも目を細めて見守ってくれたのに、好きだったのに、と。

そうやって伯母が病院のベッドで点滴だけでいのちをつないでいたときに、私はお見舞いにいくことすらできませんでした。

「わたしら親戚が見舞いにいくと、病状が悪くなる と言われた」とドクターストップがかかったことを、母たちは心外な顔をして私に告げました。「だからもうお見舞いにもいけない。だからあなたも行かないように。」と。

そのころの私には、母に「伯母さんのつらさ」について、考えたことを言えませんでした。そんなこと、一度も言えないまま、今に至っています。

母は、家族の一番下の私が、たまに真面目な話をすると「この子はむずかしいことを言う」と、けむたがって私を遠ざける人でした。たぶん、母にとって私はいつまでも自分より下にいる、未熟な末娘でいてほしかったのでしょう。そういう「キャラ設定」から逸脱するな と、私に暗に命じていたのでしょう。

かりにもし、あのとき私が「伯母さんにきつい圧力をかけているのって、私たち大勢の親戚なんじゃないの?」と、母に正直に言えたところで、母はおそらく理解しなかったでしょう。

「ざいしょに跡取りを、甥にお嫁さんを、心配だ、みんなの幸せを願っている。」そんなポジティブな、世話焼きの親戚たちのどこが悪いのか、そう母たちは言うでしょう。本気で「よかれ」と思い込んでいるのですから。

ただ、2011年の秋から、私は、自分のこころの中にあった、ある壁のようなものが、ぼろぼろと崩れていくのを 感じました。あたりまえのように言い聞かされ、真実を見えなくしてしまう「善なる無神経」の壁。その壁が崩れた先に見えるのは、「何が伯母を追いつめたのか」という真実でした。

私たちは、毎年盆正月になると、子や孫や、ベルまで連れて、十数人で母の本家に押しかけていたものでした。本家には、母の妹親子3代や、母の姉たちも来て、古い農家が、まるで公民館の集まりのような状態になったものでした。その圧倒的な訪問を受け入れ、ごちそうを出し、「跡取りはまだか」と言われるひとの気持ちなど、誰も考えていませんでした。

あのころ、盆正月といえば、そうすることが当然のような空気がありましたし、「わたしらのざいしょ」にも、子や孫ができて、繁栄してほしいと願う小姑たちの気持ちに、いつわりはなかったことでしょう。「善なる無神経」の壁が、誰のなかにも、たっていたからです。

ただ、2011年の暮れ、私は帰省の時期が近づくと、急に体調が悪くなるほどの憂鬱に包まれました。「絶対に帰省したくない」と、明らかに感じました。「ベルが死にそうだから」「子どもの受験の直前だから」帰省を避けるために私はいろんなことを言い訳にしましたが、理由はもう少し奥のところにありました。

伯母に対する「今まで、ずっと ごめんね」という気持ち、それを本人に言いに行くことさえできない 自分の実家の空気、それらを肌に感じ始め、ほんとうはわかっているのに、わからないふりをして、実家で今まで通りの「愚かな末娘」を演じ続けることが、このうえもなく嫌になったのです。

私が初めて、両親に本気で向き合った2012年の春に、伯母は亡くなりました。伯母の死は、私のこころの中にたっていた壁を完全に壊しました。私は、なにかに突き動かされるように 人生で初めて、両親への怒りに震え、それを爆発させたのです。

そのときでも伯母のことを口に出すことはありませんでした。大喧嘩のたねにするには、伯母のおもかげは、私の中で大切すぎたのでした。

今でも私は懐かしい伯母のことを思います。伯母の死を境に 私という人間は180度変わってしまいました。違う人間になってしまったと思う人もあるようです。人は「怨念」などと言って 死者がのこした影響を語りますが、伯母の死が私に与えた影響を、もし誰かがそう呼ぶなら、どうぞ呼んでくれ と思います。

あんなに優しい女性が、あんな風に息子を喪ったのに、周囲から真にいたわられることもなく、長い間「善なる無神経」で踏み荒らされながら、ひっそりと死んでいったのです。大勢いる親戚のはじっこに、ひとりくらい、あまりの怒りで「急におかしくなってしまった」人間がいてもいい。誰にも理解されず、まるで狐でもついたかのような存在と思われても、私はかまわない。

20年前の、いとこの突然の死から、すべてはもう始まっていたような気もします。悲しみに堪え、生きて死んだ伯母の人生は、私に大切なことを教えてくれました。

「人のこころ」を侮ってはいけない、ということ。

人は、あんまり「こころ」を粗末に扱われると、いのちを落としてしまうこともあるということ。

「こころ」は、目には見えないし、数値化できないから、時々ないがしろにされたり、無視されたり、忘れ去られたりする、でも、本当は そこから生きるエネルギーを生み出し、人のいのちをささえているもの・・。

それが、「こころ」だから、大切だから、自分だけは、自分のこころの味方であり続けなければいけないのです。そのために、周りの理解や評価を諦めることになっても、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 Replies to “いとこ そして伯母の最期について”

  1. 「親切の春」「伯母さんのこと」続けて読みました。伯母さんの心中察するにほんとにつらかっただろうなと思いました。「こころを侮ってはいけない」その通りですね。まずは自分の心を大切にしなければ、この部分、それこそ心にしみました。そして、自分の人生を生きている、って自信を持って言えるってなんて素敵なんだろう、と思いました。でも、そこに至るまでは血を吐く思いもあったと・・・。私は自分の人生を自分でつかみ取って生きているかしら…。そう考えながらこのコメントを書きました。

  2. 誰かに自分の道を決めてもらって、それが一番幸せだと感じる人も世の中にはいると思います。たまたま私はそのようには生れつかず、そしてたまたま、一生分の支配を受けて生きてきました。だから、人生の後半は、それとは真逆に生きてみたい、不孝者、変わり者と呼ばれてもいい。ここからは、やぶれかぶれな私に変身していくのです。

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