ひきざんのまま 年の瀬を

庭の白木蓮の樹も、ほとんど葉っぱを落としました。2019年がもうすぐ終わろうとしています。「反省なし、ダメ出し禁止」の原則で、ただ、穏やかに自分自身や周りの人をみとめながら今年を終えたいと思うのです。よくがんばったね。よく今年を生きたね、と。

仕事を納めて帰ってきた子ども達には、ごちそうではなく胃腸にやさしい食事で過ごしたいと望まれました。すでにもう仕事の忘年会つづきでくたびれた彼らの胃腸たちは「素朴が一番の贅沢」だと訴えています。育ちざかりのころ、作っていた好物の料理も、もう大人の彼らの体は望んでいないようです。それもいい と思います。大みそかだから、お正月だからと無理におせちを頑張ったりしないで、ゆるく、引き算で過ごしてみようと思うのです。

巷では「帰省ブルー」という言葉が流行っているようです。ネットでは夫の実家に帰省することがストレスだという人が多いようです。さいわい夫の実家は私にはストレスフリーな場所です。ただ、「イベント家族」な自分の実家に対しては、今年も「帰省ブルー」を避けて「帰省スルー」を選びます。そしてそれに対する罪悪感も、もう手放しました。広い世界に、自分のような人間がいてもいいと思うのです。「帰省するべき」と、同調圧力をかける人は、たいてい善人の顔をしてやってくるけれど、その人にとっての善をかざし、すべての人が同じ行動をとらなければ許せないのなら、そこからもう、他者への支配、強要が始まるのだと思います。だから、私はだれかを支配、強要したくない代わりに、されたくないとも思うのです。私は親孝行者でもなく善人でもない、ただの私です。それをそのまま認めましょう。

そんな私の一年が、やがて終わろうとしています。「反省禁止、ジャッジなし」そんな私でも、問題なく過ごすことができました。

「2019年はブログを始めよう」と心に決め、年明けとともに、この「こころのきりかぶ」を書き始めました。新しいことに挑戦するのは勇気のいることですが、頑張って一歩踏み出してみました。

書くたびに、生まれてからの記憶をたどり、自分のこころと対話するうちに、「自分のこころを大切にする」ということが、少し上手になり、生きるのが楽になったような気がします。

たとえば6月からの日々、仕事で思いがけないことが起こり、落ち込むことが続きました。体にじんましんがでたり、胃腸を痛めたりすることもありましたが、「これはこころが悲鳴をあげているのだ」と、自分でもはっきりわかりましたので、思いきって2日間仕事をお休みしてみました。休んでみると、自分がどれほど疲れていたのかに改めて気づかされたものでした。悩みをひとりで抱え込まず、職場の仲間に相談し、ひとの力を借りて、助けてもらいました。そうしているうちに、状況が変わり、しばらくすると良くなるときも、楽になるときもくるのだということがわかりました。終わりのないトンネルなど、この世にはないものです。同時に、仲間は、ありがたいものだと思いました。いまは、今年起こった、つらかった記憶を小さなスノードームに入れて、上から眺めているような気持です。記憶たちの上に雪の粉が降りそそいで、すべてがかわいらしく思えます。ただ、起こったことすべてに対する、感謝だけが残っています。この世で自分の身の上に起こることには、なにひとつ無意味なことはない、今ならそう信じることができそうです。

たくさんの新しい出会いもありました。せつない別れもありました。ひどいニュースもありましたが、希望のもてる出来事も多くありました。どちらかといえば、世界はそんなに悪くないと感じています。人生は、すてきな日々の積み重ねであると。

庭の白木蓮の樹の枝には、来年の春を待つ、小さな蕾が見えます。今年をいとおしむ気持ちと、来年を思う気持ちをにぎりしめて、しずかに今年を終えようと思います。

 

 

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