沖縄を まだ 知らない

沖縄が大好きです。空から降りていくときの海の青さや、街にただよう懐かしい空気感 そして沖縄の人の温かなおおらかさに 魂を鷲掴みにされた人間のひとりです。そうやって、沖縄を語り、知ったつもりになっていたけれど、本当は、私は沖縄を、まだ、ほとんど知らないのだ と気づきます。今日は、1972年5月15日から50年目の 特別な日です。最近はずっと「沖縄を知らない」という思いに、なんども押し寄せられています。

50年前のあの日、7歳の私は テレビで連呼されるオキナワという響きを あこがれをもって心に刻みました。「いつか行ってみたい場所は、沖縄」子ども心の それは小さな決心でした。その日の私のアタマのなかには、戦争も、犠牲も、基地も、失望も、まだ記されていませんでした。

初めて沖縄の人と出会ったのは 岩手県の盛岡市でした。窓の外の雪が真横に降っていました。驚いて目を瞠る彼女たちの、周りに漂う不思議な温かい空気感に 心を惹かれ、親しく話をするようになりました。

不思議な人でした。多くを語らなくても、今まで会った誰とも違うと感じました。まわりに対する、包み込むような親和性を持っていました。自然、たとえば大地や、海とも親しくつながっているのではないかと思わされるような、なにかに護られているかのような安定感がありました。今思えばそれは、自分のいのちそのものに対する「全き肯定感」からくる、どっしりとした自信であり、ただ自分自身が在るだけでOK と心から思うことのできる人独特の、おだやかな存在感だったのでした。そして、沖縄に生まれ育った人々の多くが、その「自分自身の存在そのものを肯定する心」を持ち合わせていることに、あとになって気づくことになります。

その後、彼女たちの優しさに甘え、独特の文化を珍しがったり観光案内をしてもらったりしながら、私はますます沖縄に惹かれていくのですが、いつまでたっても、「沖縄を知っている」と思うことのできない、底知れない深さがあると気づいたのは、何年も経ってからのことです。あの 命そのものへの豊かな受容もまた 悲しみに満ちた喪失の歴史が生み出した、達観した人生への態度なのだと気づきます。

2017年の秋に、琉球大学教授の 上間陽子さんの講演をお聴きしました。「裸足で逃げる~沖縄の夜の街の少女たち~」という本を上梓されたばかりの上間さんは、社会の片隅で生きる少女達に向き合い、寄り添うひとりの大人の姿を見せてくれました。

その日の上間さんの、優しく穏やかな語りの底に、この社会への、そしてそこにいる私たちへの、悲しみにも似た、抑えきれないなにかが流れているのを感じました。

あれから5年たち、上間陽子さんの「海をあげる」を手にした今、その「なにか」が何なのかが、少しずつ見えてくるような気がします。「この海を、ひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。」と上間さんは語ります。「私は、静かな部屋でこれを読んであるあなたにあげる。」と。

私は今、静かな部屋にいるのです。戦闘機は頭上を飛ばず、庭からの鳥のさえずりが聞こえるのです。

私たちは、沖縄の海を汚し、沖縄の空を汚し、沖縄の犠牲の上に、日々の生活を、しずかな暮らしを享受しているのに、そこにある事実を見ないふりをして、沖縄を知ったつもりになってはいないか、戦争も、犠牲も、過去のことと思いたい私は、今も、この瞬間も戦闘機の轟音とともに生きている沖縄の人々の「失望」を無視して、ただ都合よく「沖縄大好き」と言ってすましているのではないか、自分にそう問いかける日がきたのです。

しずけさの中で、私は考えます。窓からの景色が平和に見えても、今もたしかに戦争は続いているのです。将来、私たち人類が、戦闘をやめ、侵略される恐怖や想定を捨て、武器や戦闘機や基地を手放したそのとき、はじめて「戦争が終わった。平和を手にできた」と言えるのです。

あれから50年経った今日、50年後のことを想像します。2072年の5月15日、沖縄の海や空から、そして世界中から戦闘機の姿が消え、「武力侵攻」という概念が消え、「以前ここに『基地』というものがあったらしい。50年前の人々は、殺し合う想定をするのが好きだったから」と、子や孫の代に、苦笑されるような未来を。人類がほんの少し賢くなった未来を。

2022年の5月15日です。 今日は朝からずっと沖縄のことを考えています。コロナが明けたら一番に行きたいと、やはり思っているのです。沖縄のあの場所に、あの海に、あの空に、もう一度会いに行きたいと、それは私が沖縄のことを、まだほとんど知らないからなのです。

 

 

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