「わからない」を「わかる」。(無知の知?)

最近ある人が「気持ちをわかってくれる人に出会ったのは7年ぶり。」と、私のことを褒めてくれました。

彼女のそのひと言は、私を元気づけてくれますが、不思議なものです。私は先日、彼女に向かってこう言ったからです。

「私には、たぶんあなたの気持ちはわからない。あなたの立場に、私は立ったことがないから。」と。

それは正直な気持ちです。大変な人生を生きてきた彼女でした。その気持ちをわかろうとしても、私はその経験をしていません。彼女が今まで、どんな思いをしてきたか、どんな場面でどんな風に傷ついてきたか、私には到底追体験することもできないし、想像もおよびません。「世の中には、私の理解や想像を超えたことがあるのだ」と、今更ながら思い知るのです。

「わからない」ことが、この世に沢山あることに気づく瞬間が、歳をとり、経験を重ねるごとに、増えています。「わからなさ」に気づき、「わからなさ」をわかる自分になっていく気がするのです。

「私には、あなたの気持ちはわからない。あなたの立場になったことがないから。」この一言は、そんな私のこころの底から絞り出した正直な思いなのです。

それなのに、そんな私を、彼女は「気持ちをわかってくれる人」と呼んでくれるのです。これは不思議なことです。

「あなたの気持ち わかるよ。」と伝えても、開いてもらえないこころの扉があります。「私の気持ちをわかったつもりにならないで!」と跳ね返されてしまうからです。

その人の人生を生きたことがないのだから、その人の気持ちはわかるはずもなく、私には、本当に 本当はわからないのです。真実と言えるのは、ただ「わからない」ということだけです。

「わからないことだらけ」という構えで、世界と向き合おうと思う心、知った気になってものごとを簡単に判断したり、評価したりしない心、それが、もしかしたら、いわゆるいつか「倫理の時間」に習った「無知の知」というものなのかな、なんてことを、最近ぼんやりと考えます。

「無知の知」という言葉を知ったのは40年前のことですが、その意味するところが、ほんの少しだけ腑に落ちるのに、ずいぶん時間がかかるものです。それでも、それが本当に真実の「それが意味するもの」なのかもさだかではありません。

若い頃、何でもすぐに「これはこうだ!」と決めつける癖がありました。わかったわかった!これはこうなんでしょ!「絶対」こうだよね!それ以外ありえない!と。

そんな風な口癖が、口から飛び出していたころの私にとって、どうしても理解できない概念が「無知の知」でした。

「自分に知恵がないことを自覚した者こそが、人々の中でもっとも知恵ある者である。」そうソクラテスは言ったそうです。

自分の常識、自分の判断、自分のジャッジは真実か、疑わしいのではないか、と気づかされる瞬間に、これからも私は出会うのでしょう。

「わかってくれる人」という言葉をうれしく受け取りながらも、「わからない」を「わかる」という場所から、また新しい毎日を生きようと思います。

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