イギリスへの旅の話4    大学に住む幽霊

ケンブリッジは街全体が大学でした。行き交う学生たちは、毛玉の浮いたセーターを着て、ものすごく古い自転車の荷台に本をくくりつけて走り抜けて行きます。イギリスでの暮らしに少し慣れた3月初旬、私はその街を訪ねたのでした。700年以上のこの大学の歴史を、生い茂る樹木の巨大さが物語っていました。

旅に出る前、ある先生からこう言われました。

「英文学の松中先生が、2年前からケンブリッジで留学中なんだよね。連絡しておくから遊びに行ってごらん。ご夫妻2人 喜ぶと思うから。」

つまりは、そのご夫婦も日本人の学生が懐かしかろうという、同僚のおもいやりなのでした。私は言われたとおりにケンブリッジに行き、松中先生に学内を案内してもらい、久しぶりに日本の家庭料理をごちそうになったのです。

松中先生ご夫妻は、見たところ40代後半で、でもそれまで私の見たどの日本人夫妻よりも、いきいきと 好奇心に目を輝かせている2人でした。

「ここの学生の自転車 古いでしょ、卒業バザーで、自転車も売り出されるから、みんな年代物なんだよね。」と言う先生ご自身も、それはそれは古い自転車に乗っていました。

ため息橋の間を流れる川は、やがて水鳥の親子の泳ぐ川辺に繋がって、緩やかに曲がりながら学内を流れていきます。その両岸を縁取る緑は、この場所の歴史を、何もかも知っているようでした。

「ニュートンも、ダーウィンも、ここの出身なんだよ」と先生は饒舌に語りながら、行きつけの古本屋をチェックして、偶然 欲しかった本を見つけたようでした。喜んで手に入れ、自転車に載せようとして、でもどうしても我慢しきれなくなって道端で引っ張り出してその古本をめくるのです。先生が専攻されていたシェイクスピア関係の本でした。

子どもが、昆虫や恐竜に夢中になるようにシェイクスピア文学に埋没している先生の姿は、その街に同化して見えました。夕闇に浮かび上がるガラス張りの図書館では、学生達がとりつかれたように机に向かっていました。学生演劇、政治集会、音楽会、あらゆる文化的なものが、そこにはありました。

この街に立つだけで、急に学びたくなるような、不思議な気分になりました。「私はいったい何をしているんだろう。早く帰って学ばないと」ふと そんな気分になるほどでした。日本の大学で2年間 学ぶことにあまり向き合ってこなかったことが悔やまれました。私もまた、何かに取りつかれたようでした。

「この街には、幽霊が住んでいる」そんな思いが、ふっと湧いてきました。

ニュートンやダーウィンの幽霊が、今もこの街に住んでいて、「まだ学びたい、まだ学びたい」と囁いているから だからここに住む人は、学問の病に取りつかれるんですね。

「面白いことを言うね、君は」と先生は笑いました。

「漱石はこの国で 自信を失ったんだね。本場の母語で学ぶ人には及ばなくて。僕だってそう、母語で学ぶ人には かなわない」そう言いながらも、果敢にシェイクスピアを学ぶ松中先生でした。その果敢さに、私の心は動かされました。

私にはそのころ ある迷いがありました。イギリスでの春休みが終わり3年生になれば、いよいよ卒業論文の専攻を決める時期が迫っていて

近代文学ゼミに身を置き「夏目漱石」に惹かれ、本当は専攻したいと思いながら、決めかねていました。

一人ぼっちでイギリスに住み、心を病むほど悩んだ漱石のことを そこを突き抜けてあのすばらしい作品を書いた彼のことを 本当はもっと知りたいと思っていました。ロンドン塔の凄まじさ、夕暮れの寂しさ、ひとつひとつをたどるうちに、ここで一人で暮らした漱石の孤独に近づけるような気がしたのでした。

ただ、研究しつくされていた漱石を専攻する自信がなく、決心がつかなかったのです。

私がそれを選んだ瞬間、誰かから「だいそれた選択をして」と非難されるのではないか、と恐れていました。子どもの頃から 何かを選び取るたびに それを親から修正され、いつの間にか「決定権を誰かにゆだねる癖」がついていた私は、「大切なことを自分で決め、それに責任をとる」というレッスンを、怠ってきたのでしょう。

ケンブリッジの街を歩きながら、私はじわじわと決心していました。「漱石を専攻しよう。」と。

自分の好きなことを学ぶのに、かなわないとか及ばないとか思う必要なんかない そんな勇気を得たのでした。

ケンブリッジの街に、ホスト父が迎えにくるころ、あたりはすっかり夜になっていました。帰りの車で、私はその日に感じた感動や、松中夫妻の生き方をホスト父に語るのですが、思いは全く通じませんでした。ホスト父の横顔には「学生?あんな いい年の大人が?」と言う表情が浮かんでいました。

私の表現力が足りなかったせいかもしれません。でも、そのとき私の心には、再び「価値観のちがい」という言葉が浮かんだのでした。市民は成人したら働いて税金を納める、それがホスト父のゆるぎない価値観だったのでしょうか。

ホスト父は、バークレイズ バンクに勤める銀行マンだったのです。

 

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