愛しいモノたち その3

不安に支配され、どうしようもなくこころがざわつく日、家にも職場にも居場所がないような気になります。この世のどこにもいたくない、心が塞いでしかたがない、そんなとき、私は休暇を取り、仕事場を離れて、クルマに乗り込み、ハンドルを握ります。

行き先はいつも、クルマで40分くらいの場所にある神社です。パワースポットとして有名な、『あの』神社です。芸能人や皇室の方々がお忍びで訪れるそうですが、最近では某首相夫人が訪れ、炎上する形で話題になってしまいました。

駐車場からしばらく歩くと、まるで「世界から忘れられた場所」のように静かです。

コロナの影響でしょうか。観光バスの姿もなく、参道の店はほとんど閉まっています。わずか一軒の土産物屋さんが、柚子入りの甘酒を温めて、まるで私の為だけにお店を開けてくれているようです。

何の宗教も持たない私ですが、この場所へ来ると、神聖な気分になります。長い長い参道をひとり歩きます。お正月には、身動きできないくらいの初詣客があふれるこの道ですが、今日は違う場所のように森閑としています。

鎮守の森は、静謐な空気を産みだします。新緑の、深い森の中を歩くと、ホトトギスの声が、降るように響き、私の体を包みます。あたりには生命の息遣いがあふれています。新鮮な空気を吸い、体中に酸素がしみわたると、次第に神々しい気持になります。森の木々は、樹齢千年を超えた大樹で、蔦や寄生木を絡ませながら、あらゆる生命を許しながら、「そこに存在しつづけてきた」時間を感じさせます。

見上げると、千年の大樹が「心配しなくていい。なるようになる。大丈夫」と、私に語りかけてくれるようです。心を乱す心配事が、しだいに小さなことのように思え、いつのまにかざわついていた心が凪いでいます。

長い石段を登りきると、朱色の丹と深い緑色の美しく調和した神殿にたどりつきます。こんなに人がいなくても、はかま姿の美しい巫女さん達が私を迎えてくれました。

ベンチに座って目を閉じると、時間がゆらいでいくような錯覚にとらわれます。長い長い時の流れの中で、私はとにかくいま生きている、ただそれだけのことが真実となって、その他のこまごまとしたことが、洗い流されていくのです。

たびたび、ここで「ひょうたん絵馬」を買っていたものでした。一般的な絵馬は、願い事を氏名と共に書いて奉納所に吊るしますが、この「ひょうたん絵馬」は、いわば「個人情報が保護されるシステム」なのです。

大小ふたつの朱色のひょうたんと、願掛けの紙がセットになっているのです。自分の願いを紙に書きつけ、ひょうたんの小さな口から中に入れ、神殿のそばの奉納所に吊るします。もうひとつの小さい方の朱色のひょうたんを持ち帰り、お守りにするのです。

心の一番深い所にある本当の願いは、他人様に見てもらえるようなものではありません。それは最高機密のように、ひょうたんの中という小さな宇宙に投じて、誰の目にも永遠に触れない方が良いのです。

一方で、願ったことは忘れません。持ち帰ったもう一つのひょうたんを毎日目にすることで、自分の無意識に働きかけ、願いが叶う方の未来へ導いてくれるのです。

「晴れ晴れとした心、安心しきった温かい気分」。それが、ずっと私の求めてきたご利益だったのですから、あの場所は、まちがいなく霊験あらたかなパワースポットと言えるのでしょう。持ち帰ったひょうたんの片割れたちは、その朱色で、いまも私を励まし続けてくれるのです。

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