大人の中の子どものこころ

朝から空が青くて、完璧な秋晴れの、その日は私の誕生日でした。一日のうちに、何度か、友だちや子どもからの優しいメールに「今日は誕生日だ」と思い、誰にも言わずに過ごすうちに忘れ、夕方になって思い出し、そしてまた、忘れました。そういう風に一日を過ごしました。

夫が、夜になって、「あ!今日は 誕生日だ!」ということに気づき、慌てて、「おめでとう!」と繰り返し、「朝言ってくれたらケーキでも買ってきたのに!なんで言わんの?」と、黙って誕生日をすごした私に呆れていました。

たしかに。

どうして、私は自分の誕生日を、誰にも知られずにこっそりとやりすごしてしまおうとするのだろう?どうして自分の誕生日を早送りして、できればその一日消えていたいような気分になるのだろう。誰にも言わない、そのくせさみしい、ハリネズミのような孤独感を手の中に隠す、どちらかと言えばいごこちの良くない一日。一年のうち、何回か訪れる「こじらせ日」。それが私の誕生日です。

誕生日って、「おめでとう」と、よく言い交わすけれど、生まれた人にはその日の記憶は、ほぼないのではないでしょうか。

産んだ人、つまり親の方が、あの日の記憶を取り出して、「あなたが生まれたときは、うれしかった!」「ようこそこの世へ」というウエルカム・メッセージを、本人に伝える日なのではないかと、思うのです。だから、誕生日にふさわしい言葉は「おめでとう」よりも「よく来たね」とか「ありがとうね」なのではないかと思うのです。

私の場合、自分の誕生日は「自分が生まれたことで、男子を待っていた両親を失望させてしまった、人生初日にして最初の親不孝の日」と認知していたため、そんなにうれしい思い出はありません。むしろ、「お呼びでない?どうも、失礼しましたぁ!」と叫びながら退場したくなるので、できればこっそりと、何事もなかったかのように過ぎていった方が、罪悪感を刺激されるよりもましだったからです。

だから だと思います。自分の誕生日を、しずかにすまそうとする癖は。

どう見ても中年女性の私ですが、最近、「54歳児」なのかもしれないと思うことがあります。

54歳なのだけれども、ときどき4歳児のこころに、戻ってしまうことがあるのです。幼いころ、長い一日を過ごしながら、「かまって」「ほたらんで!」(放置しないで)」と、母の背中に叫びたかった。その言葉を、いまもときどき、吐き出してしまいたくなるときがあるからです。

だから私は、54歳でありながら、54歳児でもあるのです。

同時に、まわりの、年配の人たちもまた、その年齢に関係なく、それぞれのなかに「子どもの心」を持っているのではないかと感じるようになりました。

大人のふりをして、あるいは老人の姿をして、完成された人格者の役割をしていても、実は その人のなかにも、子どものこころが今もあるんじゃないかな、誰も見ていない孤独なひとときに、その夢の中で、幼いこころを抱きながら、「かまって」って泣いたり、わがままを言ったりもしているのかもしれない、などと想像してしまう自分に気づきます。

立派な地位にあって、「偉い人」と呼ばれている人物に限って、ふとした瞬間にランドセルを背負ったその人の幼い姿が、ふっと浮かんでしまって、困ります。

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