わたしたちの危機  その1

私たちにとって、最大の危機は、2013年の冬でした。今からちょうど7年前のこの季節です。寒い冬でした。はりつめた風船が、あと少しで破裂してしまうような、はりつめたゴムひもが、やがて弾力を失ってしまうような、そんな風にたがいに追いつめられていました。私も夫も、仕事がきつく、余裕のない、ぎりぎりの生活をしていたのです。

あのころ、息子は大学生で家を離れており、娘は地元の公立高校の1年生で、人数は少ないけれど、たまたま上手な先輩ばかりのバスケットボール部に所属していました。娘は「先輩の足をひっぱりたくない」と、必死で練習をしていました。今でも覚えているのは、年末年始、すべてのスポーツ施設が使えなかった冬の日、彼ら兄妹はバスケットボールをもって、大きなアリーナの軒下に行き、雪のちらつく中、2人でアップをし、生真面目にフットワークをし、シュート練習をしていたことです。

ふたりとも、バスケットボールに対しては、見ていてせつなくなるくらい、真面目でした。大切な試合を控えていたお盆やお正月には、練習施設が開いてなくても、どんな場所でも、自主トレを続けていました。

高校生は勉強を一番大切にするべきだと、高校の先生からは言われていましたが、あのころの彼らが選んだのは、まずバスケットボールでした。名もない公立高校のチームでしたが、大切な試合までの日々、納得のいく準備に、自分なりに最善を尽くさなければ、ずっと自分を許せないかもしれない、それが一番嫌なのだ ということを、彼らは知っていたかのようでした。

だから、大切な試合と試験が両方迫っていたとき、かれらは試験の準備を捨てて、試合の準備を選んだこともあったようです。

あの日、娘にそのことについて相談されたときの私も「テスト勉強をパスするんだね、わかった」と答えました。あの夜の私には「両方がんばりなさい」と言うことなんて できませんでした。

私たちは、もう、これ以上頑張れない、これ以上無理をしたら、本当に壊れてしまう、そんな危機を迎えていたからでした。

2013年の1月、あの日突然、家の中から夫がいなくなりました。

以前、軽く角膜に傷を負っていた、夫の目に黴菌が入り、過労で免疫力が弱っていたせいか、急に悪化していたのです。「そのうち良くなる」と思っていた私たちの予想とは裏腹に、町医者からあわてて大学病院に紹介されたときは、かなり重いところまで傷んでいて、そのまま入院することになったのでした。

私は慌てました。夫の職場に連絡をし、仕事を病気休職させなければなりません。職場の人に、治癒の見通しを訊かれても説明に困りました。

大学病院のドクターは、治癒の見通しを告げてくれませんでした。患者の慰めになるような気安めや、励ましはタブーとされていたようでした。

「見えるようになりますか。治りますよね。」「わかりません」「自動車の運転ができるようになりますか」「わかりません」「仕事に復帰できますか」「はっきりしないことは言えません」「失明するんですか?」「・・・上の者と相談してからお答えします」

夫は動揺しました。見えないことの不安は、見えなくなったことのある人にしかわからないもののようでした。さらに彼は、今まで、健康そのものだった働き盛りの自分自身が、こんな風に突然、健康を損なわれたことに混乱していました。まだまだ高校生の娘、大学生の息子も支えていくつもりなのに、「もしかしたらこのまま仕事に復帰したり、自動車の運転もできない立場になってしまうかもしれない」という可能性に直面したことが、彼をひどくおちこませたようでした。

着替えをもって病院に行くと、夫は本当につらそうに見えました。回復の先行きのまったく見えない日々の中で、このまま力を落としてしまうのではないか、と思われるほどでした。今まで、少し年上の夫を兄のように思い、自分は女性だと言う遠慮もあって、ななめ上の関係で私たち夫婦は歩いてきました。根拠のない順位を、自分たちで作りながら、心の主従関係をゆるく保ってきたのでした。

夫が自分自身をこんなに追いつめてしまうのは、いま思えば、彼の責任感からくるものでした。「男の自分は、一生働いて、家族を養うべき」という、見えないジェンダーで自分自身を縛りあげ、「働けない男」を心のどこかで否定してきた夫は、あの日、自分の身に起こったことを受け入れられずにいたのだと思います。

そんな時でした。九州大会予選を5日後に、テストを3日後に控えた娘から、「今度のテストを捨てようと思う」と相談されたのは。

私は、「わかった」と答えました。もう、任せる。というような気持ちでした。急に女二人きりになった、がらんとした家の中で、娘と私は、なりふり構うことを止める、という、どこかやぶれかぶれな気持ちを共有しあったのでした。

試合の当日、夫は、病院のベッドから、娘の勝利を祈っていたようです。私は、会場の2階席から、それを見つめていました。

残り15秒だったと思います。体育館の半分以上をチームカラーに染め上げた、私立の強豪チームに、1点差で負けていたゲームで、相手からそれほどマークされていなかった娘のパスカットを受け取ったエースの先輩が、シュートを決めて2点返し、逆転勝利で九州大会出場を決めたのは。

その様子を見ながら、私は自分の中に力が湧いてくるのを感じました。家族の中で、順位なんか関係ない、できるときにできる人がやればいい、あんなに小さかった下の娘が、なりふり構わずにテストも捨てて、あの一本のパスカットを産みだしたんじゃないか、そして娘をあんなに強くしたのは、病院で祈ることしかできない、父親の存在かもしれない、と。

私は、夫の病室に行きました。娘の試合を報告し、喜びあいながら、夫にこう告げたのです。

「あなたが、仮に一生働けなくなっても、私が働いてお給料をかせぐ。働けない男がダメだと、私は思わない。だから、自分を、もう追い詰めないでほしい」。

男は働かなくてはならないと、女を養わなくてはならないと、いったい誰が決めたのでしょう。男であろうがなかろうが、人間 誰しも、いつかは働けなくなるときが来るのです。働けない男がダメだなんて、そう思い込むのならそれも失礼な話です。人は、その存在そのものが誰かを励ますこともあるのに。生きることそのものに、まずは意味があるのに。

寒い冬でした。大学病院の窓の外には雪が降り、センター試験の学生たちの姿が遠くに見えました。

あの日々は、私たち家族を痛めつけながら、それぞれをそれまでの殻から引き出す、試練だったように思います。

夫の母も、遠くに住んでいた息子も、それぞれがそれぞれの場所で、この日々を耐えて、見守っていました。その冬、娘は自分史上最高の勝利と、自分史上最低の学業成績を、同時に得たのでした。

 

 

 

 

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