連休の終わりを迎える日、テレビのニュースでマイクを向けられた人は、大人も子どもも、「いやだ、学校もう行きたくない」「休み明けの仕事がつらい」と言います。ずーっと休みだったらいいのに と。みんなそうなのでしょうか? “長い休みの終わり” の続きを読む
幼なじみの男の子
「かわいい」とは「相手をおびやかさないこと」・・・この春、上野千鶴子さんが語った、「女の子たち」が、親から「翼を折られ」てきた という言葉に、自分の若い時代をふりかえった女性も多かったのではないでしょうか。
バレーボールに夢中になって
小学校高学年になると、「男子」「女子」と呼ばれることが多くなりました。そのころ流行り始めた「スポーツ少年団」では、「男子は野球、女子はバレーボール」と なぜか決まっていました。私は、野球で遊ぶことも好きでしたが、バレーボールクラブに入部し、女の子の仲間と長い時間を過ごすようになりました。
子どもは2人で豊かな暮らし(?)
「我が家は、子どもがひとり、多すぎるんだなぁ・・・」
ある日、父が妙なことを言い出しました。1974年のことでした。彼によると、「国が定めた『標準世帯』は、子どもがふたりなのに、我が家は三人もいるから、いろいろお金もかかるし大変なのだ」というのです。それもわざわざ、三番目の子どもの私に向かって、大真面目に言うのでした。
地獄の教室
『新学期になったのに、まるちゃんは今年も3年生 なぜって3年生がカワイイから、作者が勝手に進級させなかったのです。(サザエさんをお手本にしました)』そういってまる子ちゃんは、永遠の小学校3年生を決め込んでしまいました。
私も、サトウ先生のもとで「ぼやーっ」としている小学校3年生のまま、永遠にまわっていられればよかったのに、あのころ何度そう思ったかしれません。新学期から始まった小4のクラスは、「地獄の教室」だったからです。
生まれた町を離れて
小学校2年生になる春のことです。私は、父の転勤により生まれて7歳まで暮らした、その切り株山の町を離れることになりました。
引っ越しのトラックと共に、生まれた町を離れながら、それが何を意味するのか、私にはわかっていませんでした。この町に二度と帰ってこれなくなると言うことに気づくには、経験が浅すぎたのです。
白髪の先生
小学校3年生のときの担任の先生は、サトウ先生と言って、白髪頭のおじいさん先生でした。とは言っても、たぶん今の私より、ずっと若かったのでしょうが、あのころの私には、とてつもなく年齢のいった人に思われました。
1972年の記憶~サッポロ・オキナワ~
1972年は、町立幼稚園までの道を歩いて通っていて、それが私の世界のすべてでした。
山の向こうに何があるのか、そこにある世界がガイコクなのかな、と思ったりしました。
素直な心の子にする童話集(?)
本が自分で読めるようになったころのある日、両親が私のために、本のプレゼントをしてくれました。いつも姉たちのおさがりの本を読んでいた私にとって、初めてのことで、もらった日はとても嬉しかったのを覚えています。
ゆらめく炎(そして伯母のこと1)
息子はイマドキの若者ですが、週末になると友人とアウトドア・キャンプに行くこともあるようです。あの子たちが小さいころ、我が家では、たびたびキャンプに参加したり、庭でバーベキューをしていました。他でもない私自身が、炎が好きだったためです。
泣くことを禁じられて
子どもは夜泣きをします。
子育てをしていたころ、夜中に子どもに泣かれることが、一番怖かった。
なにしろ「夜泣き」って、原因はわからないし、いつまで続くか予想もつかないし、壁一枚しか隔てていないアパート暮らしだから、きっと近所迷惑になるとも思ったし・・・・。
マッチに火をつける日
姉たちとともにお話をきかせてもらっていた私が、ひどく心を震わせたお話があります。「マッチ売りの少女」でした。
お話を聴きながら、涙をぽろぽろとこぼす私に、周りはおどろき、ひいていましたが、私には恥ずかしさよりも、胸をしめつける「せつなさ」を、止めることはできませんでした。
祖母のこと
祖母の記憶をたどると、手をあわせ、祈る姿が浮かびます。
彼女は、仏壇や道端のお地蔵さまにお花をあげ、祈りをささげる人でした。なぜそんなに「あの世」に心を寄せていたのか、そのころの私には理解できませんでした。
後年知ったことなのですが、彼女はその生涯で九人もの子を産んだにもかかわらず、死産や病気や事故で子を亡くし、無事に大きくなったのがわずか三人、つまり私の父と、父の兄、そして父の妹だけでした。そしてその唯一の娘も二人の子を残し30代でなくなりました。
会話が「ごちそう」(父の山の家)
モノクロの写真が一枚あります。田舎の家の縁側を背景に、大勢が写る家族の写真です。最前列の中央に写っているのは、4歳くらいの女の子、これが私です。夏の帽子を被り、ノースリーブのワンピースを着ています。その私をしっかり抱き寄せているのは祖母、少し離れたところに、父の兄である私の伯父が笑っています。ふたりとも、もうこの世の人ではありません。そして二人は、私の心の中では、私の理想の両親です。私はそう心に決めています。
「嘘つき」と呼ばれて
「嘘つきは ドロボウのはじまり」。その言葉を、おぼえるころには、私にはもうすでに「嘘つき」という、不名誉な認定がされていました。
なんだか子どもの頃の私は、周りの人から、そう言って糾弾されることが、たびたびあったからです。
私は、まぎれもなく、嘘つきだったのでしょう。かまってほしくて、ありもしない空想のおとぎ話を、まわりの人に語っていたのかもしれません。