愛しいモノたち その1

今日は夏至です。太陽が遠くの山の端にいつまでも明るく残っています。わたしたちの星は、今しっかりと顔をあげて、太陽に向き合っているのだなあと、今年のこの日は特に感じます。コロナウイルスの影響で、世界は、地球は、確かにつながっているのだと、いやでも実感したせいでしょうか。フィンランドの人々は、今ごろ白夜を過ごしているんだろうな、なんてことを、行ったこともないのに想像してしまうのも、実は今年が初めてです。2020年、急に世界は狭くなったものです。 “愛しいモノたち その1” の続きを読む

昭和の遺物を葬るとき 

私は、贈り物をすることが苦手です。贈る側にとっては、デパートで選んで包装してもらえば、それきり見ることもないまま終わりますが、もらった方にしてみれば、それからの人生の長い時間、見るたびにくれた人のことを思い出し、使い込んで古びても、捨てるに忍びなくて捨てることもできず、まして使わずに「タンスの肥やし」にしたままのモノたちは、もっと申しわけなくて捨てることができず、そんな「モノたちの末路」を思うと、「長く記念になるもの」を贈るなんて、私には恐ろしくてできません。

“昭和の遺物を葬るとき ” の続きを読む

粉とバターと砂糖とタマゴ

粉とバターと砂糖とタマゴ、バランスはだいたい200:100:100:1。隠し味に塩をひとつまみ、ざっくりこねてバタークッキーを焼きます。

素朴で高カロリーなバタークッキーは、育ち盛りの子どもたちにこそふさわしいということを、大人になって知りました。歳を重ねるといつのまにか忘れてしまう、あの濃厚なバターの風味を強く求めていた、懐かしい時代を思い出します。

“粉とバターと砂糖とタマゴ” の続きを読む

勝ち負けのない 夏

高校3年生、それはきわめて大切なときです。人生の岐路に立ち、大切な選択をし、一日一日を輝いて生きる時期、ひとつひとつの経験が濃厚な意味をもち、生涯忘れえぬ季節。

そんな若者たちを応援し、励ます思いの強い私にとって、コロナ禍による「インターハイ中止」「甲子園中止」それと同時に文化部のさまざまな大会の中止は、あまりにも重いものでした。 “勝ち負けのない 夏” の続きを読む

ひとつの結末(100投稿を節目として)

書き始めて1年半のこのブログも、ついに投稿回数100回目です。半世紀あまりの半生を振り返る作業も、長いことかけて ここまでたどりつきました。

朝のコーヒーを自分のために丁寧に淹れながら、今日という一日を祝う自分に気づきます。自分がOKかNGか、生きる価値があるのかどうかという評価を気にしていた日々のことを、嘘のように遠く感じます。

“ひとつの結末(100投稿を節目として)” の続きを読む

「コロナ後の新しい世界」のために

今年も連休は家にいました。「何もしないで家にいる連休」が好きな私にとっては、去年と変わらない過ごし方です。

例年の連休中は、テレビや新聞、ラジオによって、満員の新幹線や、高速道路の渋滞を見せつけられ、身体はじっとしていても、人々の「へとへと」をもらい受けていましたが、今年はそれもありません。

私は一日中家で過ごし、晴れの日は晴れに感謝し、雨の日は雨を聴いて過ごしています。なにもないことが実は一番贅沢なことなのだと感じています。 “「コロナ後の新しい世界」のために” の続きを読む

 Please just live(ただ 生きて)

今回の新型コロナウイルスによって、私たちは、いままで経験したことのない世界を目の当たりにしています。

なにより驚いたのは、今までの常識が、つぎつぎにくつがえされていくことです。

「人は、朝起きたら家を出て、働きにいかなくてはならない。

学齢期の子どもは学校に行き、同世代の子どもと机を並べて学ぶものである。

家にばかり籠っているのは良くない、人と交流する社会性を持たなくてはならない。

景気が良いのが一番だ、観光客と消費行動で、経済を回さなくてはならない。」

生まれてから、ずっと正しいことと思い、疑いもしなかった当たり前の数々、それらが突然、通用しない世の中になってしまいました。

“ Please just live(ただ 生きて)” の続きを読む

イマジン

新型コロナウイルスの影響で、沖縄での会議がなくなりました。大好きな仲間に会うことを楽しみにしていたのですが、残念です。

このブログを自分で振り返って思うことは、学校に向かう子どもたちに心でエールを送ったり、人と集まることを楽しんだりしたことが、いつのまにか遠い日々になってしまったということです。あんなふうに何気ない日常を送ったことが、ここまでいとおしく、貴重に感じる日がこようとは思ってもみませんでした。好きな時間、楽しい記憶が、今は宝のような日々に思えます。

さびしくて、不安な時を、どう過ごすか。私の場合は、「楽しかったときを思い出す」という方法を試してきました。

“イマジン” の続きを読む

むしろ855525問題(!?)

若い子が、交際している恋人と「結婚したい!」と考えて、その思いを親に伝えました。親世代は55歳前後、この親たちが、その結婚を応援したいと考えても、85歳前後の「祖父・祖母」が、「孫の姓が変わること」や「相手が気に入らない」ために、この結婚に反対したそうです。最近の85歳は、なぜかとてもパワフルで発言力が衰えず、55歳は85歳に逆らうことができません。当時25歳の若い子は、大切な祖父母の意見を尊重するように育てられていました。そしてついに「結婚をあきらめる」という悲劇がありました。これを私は「855525問題」と呼びたいのです。「8050問題」に匹敵する、むしろそれにもまさる、深刻な社会問題だと思うからです。

“むしろ855525問題(!?)” の続きを読む

あなたのことをわかりたい

「あの子たちのことは よくわからない」。

思春期の、やる気のない、ふてくされた女の子を見たときに、私たち大人は、つい、そう思ってしまいます。「あの子たち」の反抗や攻撃的な言葉に、プライドを傷つけられるのが怖くて、「わからない」という一言で、考えることから逃げ、関係を遮断してしまうことが、あります。

“あなたのことをわかりたい” の続きを読む

イミテーションの花

この家に住み始めて、もう20年になります。当時は田んぼの中でしたが、今ではすっかり住宅地になって、あのころの私たちのような「子育て家族」が次々に移り住んできました。だから、この辺りでは、近所の家々から、いつも小さな子ども達の声が聞こえます。小学校に向かう子ども達が毎朝、決まった時間に、我が家の家の前を、通っていく姿を見ることもできます。小さい体に大きなランドセルを背負って、たいていは少し緊張した表情で、子ども達は歩いて学校に向かっています。「いってらっしゃい」と心につぶやきながら、その姿を目で追うことが、毎朝の私の日課です。そして自分も仕事に出かけるのです。

“イミテーションの花” の続きを読む

新しい日々を生きる~慣習を手放す~その2

 

冠婚葬祭でも、その土地土地に古くから伝わる独特のしきたりがあるようです。

例えば、沖縄地方のお葬式では、男性はこちら、女性はこちらという風に、別々にご案内され、それぞれ分かれて指定の席に座るそうですが、これは、沖縄ならではの、とてもめずらしいしきたりだと思います。

“新しい日々を生きる~慣習を手放す~その2” の続きを読む

新しい日々を生きる~慣習を手放す~

元旦です。一番新しい日です。ほんとうは人生のすべての日がそうなのだけれど、今日のような日付の日は、特別な実感が湧いてきて、わかりやすくて好きです。

2020年が明けました。2000年代を迎えることに大騒ぎをしたあの日から、「もう20年経ったのか」というのが正直な実感です。21世紀になって、20年も経ったのだから、前世紀の、重苦しい慣習なら、そろそろ手放したいと思う今日この頃です。

“新しい日々を生きる~慣習を手放す~” の続きを読む

ひきざんのまま 年の瀬を

庭の白木蓮の樹も、ほとんど葉っぱを落としました。2019年がもうすぐ終わろうとしています。「反省なし、ダメ出し禁止」の原則で、ただ、穏やかに自分自身や周りの人をみとめながら今年を終えたいと思うのです。よくがんばったね。よく今年を生きたね、と。

“ひきざんのまま 年の瀬を” の続きを読む