『地獄』から『極楽』への扉

そこには、お腹をすかせた人々と、大きなテーブルに盛られたごちそうがあります。人々はみな、1メートルほどもある長い長い箸をもたされ、それを使わないことには、食べることはできません。

人々は、乱暴に人を押しのけてテーブルの前に陣取り、われ先にとごちそうを口に運ぼうとします。後ろから、押しのけられた人から罵声が跳びますが、そんなことに構ってはいられません。自分が生き延びるためには、競争に勝たなければやがて飢えてしまうでしょう。

しかし、なにしろその箸が長すぎるため、どんなに長く手を伸ばしても、自分の口に入れることはできません。飢餓感と焦りはますます募り、人々は互いを押しのけて攻撃をはじめ、暴力が暴力を呼び、傷つけあうことだけを続けています。

これが、『地獄』です。

『地獄』から、少し離れた世界の話です。

そこには、お腹をすかせた人々と、大きなテーブルに盛られたごちそうがあります。人々はみな、1メートルほどもある長い長い箸をもたされ、それを使わないことには、食べることはできません。

ある人が、テーブルの上の、一番小さいごちそうのかけらを、そうっとつまみ上げました。そして、そこにいる中で、一番幼く弱い「子ども」に目をやると、その子の口元に、ゆっくりと、その食べ物を近づけていきました。

その子どもは、知らない人から与えられた食べ物を口にしても良いものかと一瞬迷い、そばにいた父親の顔を見上げました。父親は、優しくうなずきながら我が子を見つめ、その人を信じて食べるようにと促しました。

子どもが、長い長い箸によって、生きるための糧を口に入れるのを、周りの人々は固唾を飲んで、見守っていました。おいしい味を久しぶりに口にしたその子の、極上の笑顔を見届けると、人々は安堵の声と笑い声をもらし、やがてそれぞれが、互いに箸を使い、互いの口元へ、食べ物を運ぶことを始めたのです。

それが『極楽』なのでした。昔聴いたこの法話を、このごろまた思いだします。

一日一日、「感染」の情報が更新されています。その情報には、年齢や性別、職業、そしてその人の移動の履歴が付け加えられています。

昨日まで、隣人や友人と思っていた人が、感染した人や、感染リスクの高い仕事についている人に対して、攻撃や差別を始めるというニュースを耳にします。「人間ほど怖いものはない」と人は言います。人の心の中にある差別心、攻撃性、エゴイズムが牙をむくことの怖さを語っているのです。

人の気持ちよりも何よりも、自分のことだけを考え、まずは人を退け、押しのけ、傷つけることからはじめるその姿は、まるで『地獄』の住人の姿を見るようです。パンデミック映画やゾンビ映画で必ず目にするのは、恐怖と保身にとりつかれ、自分が助かるために他の人を陥れようとする悪役の姿ですが、それがフィクションの世界だけではなかったことに、驚いています。そして少し、この世の切なさに胸をしめつけられています。

「誰もが感染のリスクを負っている」ということは、人を差別し攻撃しているご自身も、やがてその立場になりうる可能性があるということです。「自分だけは絶対かからない」と、「こっち側」であることを主張する人は、単に想像力に欠けているだけなのだと思います。

私の体も、きっといつかは、地球に生まれたこの新しいウイルスを迎えるときがくるのでしょう。それが私の体にどう影響するのかはわかりません。命に関わるのかもしれませんし、感染者として差別され、攻撃されるという試練を経験するのかもしれません。この世の人々が、残念ながらそうならば、甘んじて差別と攻撃を受けるのもいい、心の準備を始めましょう。

ただ、どこかで人を信じたい気もしています。「一番弱い存在」に手を差し伸べることが、実は みんなが助かる道なのだということに気づき、ひとり、また一人と、その方向へ足を踏みだす人々が増えるのではないかという期待を、捨てきれないでいるのです。人類がこの試練に堪えるなかで、もっとも試されるのは、そういう「こころ」のもちようなのだと思います。

お金もかからず、時間もかからず、人の人生を180度変えてしまうもの、それが「こころ」のもちようであり、『地獄』から『極楽』への、唯一の扉なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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