素直な心の子にする童話集(?)

本が自分で読めるようになったころのある日、両親が私のために、本のプレゼントをしてくれました。いつも姉たちのおさがりの本を読んでいた私にとって、初めてのことで、もらった日はとても嬉しかったのを覚えています。

本のタイトルは「素直な心の子にする童話集」でした。この本は、親が「素直な心の子になってほしい」という願いをこめて子に贈る本なのでした。いくつかの物語がおさめられており、それぞれ、へそまがりの男や、うそつきや、がんこものが物語の主人公で、必ずその性格がわざわいして、最後はひどいめに合うという、バッドエンドのストーリーばかりでした。例えばその中のひとつに「魔法使いの弟子」があったり、「きんののうみそ」があったりしました。「性格を直さないと、こうなるのだよ」と教訓を示し、素直な子にしようという意図の見える本でした。その本の装丁は豪華で、いかにも立派な本でした。私はそれをまじめに読みとろうとしたのですが、いくら読んでも好きになれなかったし、それを読むことで自分が素直になれたとも思えません。

ただぼんやりと、じわじわと、こんな本を与えられるほど、親から「すなおじゃない子」と思われているんだなあと感じました。あれから、ずうっとそう感じ続けています。

あのころの私は、「自分をよく見せよう」という必死の努力にもかかわらず、両親から「この子はどうしてこんな子なのだろう」と悩ましく思われていたようです。それほどわざとらしく、素直さのない子どもだったようです。「気に入られたい。愛されたい」と頑張る小賢しい子どもが、親の目に「素直さのない子ども」としかうつらなかったのだ、と思うと、かなり残念です。太宰治の「人間失格」の主人公に、私はどこか似ていました。

「すなお」ってなん?「すなおなこ」って、どうすればなれるん?私はますます、考えました。「すなおなこ」になりたい、と願いました。そして、そう願えば願うほど、「すなおさ」から遠ざかっていったのです。

実際のところ「ほんとうの素直さを持つ子ども」とは、「自分の感情にしたがって、のびのびと、まっすぐ喜んだり悲しんだり、怒ったり楽しんだりする子ども」です。そんな子は、そもそも最初から「大人の顔色」なんか窺わないのです。そんなことをしなくても「自分は愛されている。受け入れられている。」という自信があるから、まっすぐに、飾らずにのびのびといられるのでしょう。

だとするならば、親が子をコントロールして大人の気に入る「素直な子」にはめ込もうとすること自体が、間違っているのでしょう。バッドエンドの物語で子どもを脅して、むりやり素直な子どもにしようなんて発想自体が、子どもの心の育ちに影を落とし、真実に逆行しているのだと、今の私にならわかります。

「感動や感謝、信頼や家族愛」を、学校の教科「道徳」で教え、先生が評価する。そんな時代になったようです。あのころの私のように、これからの子どもたちは「良い性格の子」と思われるために智恵を絞るのでしょうか。

そんなことで育つほど「ひとのこころ」はベタではないし、先生から高い評価を勝ち取る子どもは、ほんとうは「道徳心が育った」のではなくて「道徳心が育ったような態度をとることのできる」子どもなのです。

ほかならぬ私自身が、かつて「良い性格」に改造しようとされた子ども本人だったからこそわかります。「子どもの心をコントロールしようとすること」は子どもの心を育てません。

「子どもの心に、不自然なてこいれをしない。」と決意する、「ひきざん」の方が、こころには本当は良いと私は思います。「心」はいつも発展途上だから、そう簡単に評価されない方がよいような気もします。

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