十代との「哲学対話」

「哲学対話」をしています。半年前から一緒に過ごすようになった彼らがどんな思いを持っているのかを、もっと知りたいと思ったことがきっかけです。

哲学対話のルールは、「何を発言してもよい」「他の人の発言を否定しない」「発言しなくてもよい」「問いかける」「言おうとして上手く言えず、黙ってしまう人がいても、促さずに待つ」「話がまとまらなくてもよい」「途中で自分の考えが変わっても良い」「わからなくなっても良い」「人を傷つけない」「答えが出なくても良い」です。

「何も語らず、ただ聴いていることが許される」というこの空間は、いわゆる「学級会」や「ディベート」とは違う場の空気を生みだします。ただ黙っていても「聴きながら考える」ならば、それが哲学なのです。

部屋の片隅に、私たちはパイプ椅子をもって集まり、丸くなって座ります。大人ふたりを交えると、人数は8人です。

「ここに加わる大人には、ある勇気が必要です。上に立つ大人という立場を脱ぎ捨て、ひとりの人間として、正直に語らなければなりません」

そう告げると、大人の目にかすかな困惑の色がうかび、それを盗み見た十代の目は輝きます。

「しあわせとは」「不幸とは」「暴力を使っても良いときはあるのか」という、定番のテーマで私たちは語りました。

自分の生き方について迷い、不安を感じている若者が、その感じ方、考え方をそのままに、とつとつと語り始めます。語らなくても良いと言うルールでも、全員が、思いを語るのでした。

『しあわせとは』・・・「お金さえあれば幸せだよね。」「独りの人生はさびしいからパートナーも欲しいな。」「さびしいならペットと暮らせばいいよ。パートナーとの人生よりも、自由な時間が幸せだと俺は思う。だから、ひとりでも充分しあわせだ。」「本当の幸せはお金では買えない。」「いや買えるって。」「いや大金持ちはお金を狙われる不安があるっていうし。」「本当のしあわせとは『不安』を感じないこと」。「誰からも『ああしろ、こうしろ』と言われずに自由に生活できること・・・。あとやっぱり、気持ちをわかってくれる仲間がいれば幸せだと思う。」

『不幸とは』・・・・「一日のうちで、一番不幸なのは『朝』だな。」「私も」、「俺も」「朝から家族の不機嫌にやられる。自分は悪くなくても、不機嫌な家族が家の中にいるだけで死にたくなる。家の中や教室の中に、仲の悪い関係があれば、空気が最悪になって不幸だ。」「不幸かどうかは自分でどうもできなくて、『まわりの人間の機嫌・不機嫌』で決まる。・・。変なの。」

『暴力について』・・・「見てないふりをしたことがある。しかたがなかった。そうしないと自分がやられるから。」「家の中でも暴力はある。きょうだいげんかでも暴力だし」「親。でも、もう嫌だ、たくさんだ。」「言葉の暴力っていうか、『圧』でさ、脅してさ、言うことをきかせられるのは、相手がいくら『上の人』でも、もう嫌だ。そんな風にして、支配されても、本当はついていってない。言うことをきいてるふりをしてるだけ。『圧』で人をひっぱるやり方は、もうこれは「洗脳」だから、もう絶対にイヤだ。」「暴力は犯罪だ。これはもうはっきり言いたい。」

十代の若者が、人生について考え語るとき、「嫌なものは嫌だ」という本心にたどりつくことがあります。そのとき、こころが音をたてるのを感じます。自然な感情の発露です。仮にそれが、激しい負の感情であったとしても、そのままに受け止めたいと私は思うのです。怒り、不安、恐怖、恨みといった、彼らのこころに沈んでいた感情を、そこにあると認め、無視せずに尊重することが、同じ人間として、あたりまえの所作だと私は思います。

人生とはなにか。幸せとは、不幸とは、自分をとりまく世界について、彼らは決して無関心ではありません。むしろ必死で凝視し、考え抜きたいと望んでいるかのようです。友人と車座になって、そんなことを語り合う時間は、だからこそ意味のあるひとときとなる、と私は感じます。

高校時代の私自身は、心の底に押し込めていた自分の思いに目を向けませんでした。「そんな暇があったら単語のひとつでも覚えろ」という空気がありました。焦燥で常に背中を焼かれていました。大人からの評価や、テストでの点数の方が、自分の思いなんかよりも、よほど大切だと考えていたのです。

「考える時間」や「感じる時間」を若者から奪う、多忙な学校生活は、こうして何十年も受け継がれてきました。もしかしたら「考える若者を疎む大人社会の都合」のようなものが、あるいは背景にあるのかもしれません。「若者が『考える』ことを放棄してくれた方が社会は治め易い」という、大人の都合が、です。

ただ、これほど大きく世界が変わろうとするいま、「考えるのは大人に任せて、あなたたちは受験勉強だけしていなさい」という、かつてのような言葉が通用しなくなっていることは明らかです。

かれら若者の生きる近未来は、私たち大人の生きて来た世界とは、全く別物なのですから、「かれらの代わりに考えてあげること」はできません。

彼ら自身が、厳しい世界を生き抜くために、そしてできれば、こころにしあわせを実感して人生を送ってもらうために、必要なのは「自分自身の考えに耳を傾ける」という、こんな作業なのではないかと、考えます。もちろんそこに「評価」は要りません。

 

 

 

 

 

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