愛しいモノたち その1

今日は夏至です。太陽が遠くの山の端にいつまでも明るく残っています。わたしたちの星は、今しっかりと顔をあげて、太陽に向き合っているのだなあと、今年のこの日は特に感じます。コロナウイルスの影響で、世界は、地球は、確かにつながっているのだと、いやでも実感したせいでしょうか。フィンランドの人々は、今ごろ白夜を過ごしているんだろうな、なんてことを、行ったこともないのに想像してしまうのも、実は今年が初めてです。2020年、急に世界は狭くなったものです。

今日は、例の壊れたテレビを、電気屋さんに持ち込んでひきとってもらいました。これで我が家の「断捨離」が、ひとつの結末を迎えたことになります。思えば2月の下旬に、ふと思い立って家の中の家具を処分し始めてから四か月の間に、私はまるでとりつかれたように、大きなモノたちを次々に手放してきたのでした。

いま、家の中を見回すと、冬のころとはまったく違った空気が家の中に流れていて、どうかするとまるで別の家に引っ越したかのような、または、隣のパラレルワールドにずれこんだかのような、ちょっとした妙な錯覚に陥ることがあります。

それでも、私の「愛するモノたち」が、家のそこここに、今まで以上の存在感を放ちながら、居場所を確保しているのが目に入り、懐かしいような気持になります。「好きなモノ」だけに囲まれて暮らすことへの祝福を感じているのです。

大げさな言い方になりますが、私の愛するモノたちには、それぞれ何十年も使い込んできたなかでの「歴史」があります。それを人は「愛着」と呼ぶのでしょう。

壁に飾られたキッチンばさみは、今は亡き愛犬ベルが、出産をしたときに 思わずへその緒を切ってやったときのものです。慌てて煮沸消毒をしたはずみに取っ手が熱で変形してしまっても、その不恰好な姿のまま、温かい記憶を私に語り続けています。

そのとなりに「ワイン・オープナー」があります。ぐいぐい回しながらコルク栓に螺旋を沈めると、ハンズアップしたかのように両腕が上がり、それを一気に下げることで、簡単にきれいにコルクを抜くことができるのです。美味しいワインを開ける瞬間の、パーティが始まるワクワクした気分や、大好きな仲間とおすすめのワインを飲み交わすときの華やいだ記憶が、昨日のことのようによみがえり、見ているだけで幸せに浸ることができます。

「肉叩き」と「ポテトマッシャー」は、台所用具の中でも、特にお気に入りです。「ただ肉をたたくためだけの道具」と「ただジャガイモをつぶすためだけの道具」です。その単純さと、自分の出番を黙って待ち続ける不器用さが愛おしくて、大好きなのです。ごくたまにステーキ肉を買ってきて、「おいしくなれ」と念じながら、肉叩きでバンバンたたくとき、そのわずかな出番を、彼はとても誇らしげに、はりきって全うしているように見えます。その重さ、その強度、その角度を考え抜かれた、絶妙な使いやすさに、作り手の知恵と技を感じ、感嘆せずにはいられません。

「あまりにも古いものは捨てるべき」とすすめる人は多いのですが、私は、使い込んで愛着の湧いた古いモノたちが捨てられないという性分のようです。

人には、それぞれのこだわりがあるそうですが、たぶん私にもあるのでしょう。だからこそ、楽しい記憶を孕んだ、愛しいモノたちに囲まれて生きる、これからの人生の日々が、さらにキラキラと輝くような予感がするのです。

 

 

 

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