最悪の夜の後ろに

雨の夜、クルマのエンジンをかけます。駐車カードを機械に入れ、指定された金額をコインで投入するタイプの有料駐車場です。お腹がすいていたから、運転しながら食べようと、コンビニでおにぎりとお茶を買いました。雨の夜の高速道路は霧のために通行止めになってしまいがちです。スマホで確認すると、さいわい今夜は速度規制があるだけで、なんとか通れそうです。この夜の道を今から一時間半 運転して家まで帰らなければなりません。

しかも、さっきまでの会議の内容で、頭の中はいっぱいです。こんなとき、よくやるのが救いようのない失敗です。ずっと以前、駐車場の出口で、出庫のバーの前で立ち往生してしまって、後ろの車に迷惑をかけてしまったことがありました。お金を払うときに大きいお金(5000円札と10000円札)しかなくて、投入する小銭が足りなかったのです。そんなことにならないように財布を確認しました。

さて、今夜は丁度のコインを投入し、出庫のバーが開きました。いざ出ようとしたときに、魔がさしたのです。

「あっ!!」「領収書ボタン押して、領収書をもらわないと!」会計係の人に、ついさっき言われたことを思い出したのです。

慌てた私は思わず車をバックさせてしまいました。もちろん とっさのうちに 後続車がいないことを確認して・・・。そして・・・。

押そうとした領収書ボタンの電源は、切れていました。夜の駐車場は暗闇に戻り、そして、目の前の出庫バーは、もとどおり閉ざされてしまいました。そうです。私は、夜の駐車場に、無情にも閉じ込められてしまったのでした。

どうにかしなければ、と大急ぎで入庫口まで走り、ボタンをおして駐車カードを手に入れようとしましたが、いくらボタンを押しても、機械は全く反応しません。車に乗っていない人のすることは、ただの悪戯に過ぎないのでしょう。

最悪です。もう私には、この有料駐車場を脱出するすべがなくなりました。これでは家まで帰り着けません。お風呂にも入れないし、眠ることもできないし、明日の仕事にも行けません。そこまで想像すると、気が動転してしまいそうでした。

そのときある考えが浮かびました。

「いっかい落ち着こう」・・・。

これは私の子どもたちの口癖です。彼らはバスケットボールのポイントガードをしていた頃、ボールをドリブルで運びながら、タイマーを見て、点数を見て、敵を見て、仲間を見て、自分のおかれた状況を見て、いっかい落ち着いてから次の判断をしていたようでした。そのせいか彼らは 何かことが起こると、そうつぶやく癖がついていたのです。

「そうか、いっかい落ち着こう。これは最悪の状況だけれど、もしかしたら最悪の後ろに、何かいいことがついてきてくれるかもしれないし」なぜかその日はそんな風に考えることができました。

そうすると急に看板の文字が目に入りました。「故障・トラブルは下記の電話番号へ、ただし係員の到着まで時間がかかることがあります」・・・。

まあいいか、と思うことができました。どれほど遅くなるかは知らないけれど、おにぎりを食べながら待っていよう、と。

お茶を飲み、おにぎりを食べていると、クルマの窓をコンコンとたたく人がいました。思ったより早いタイミングで来てくれたのは、制服を着た係員の人でした。「大丈夫ですか?」とその人は言います。笑顔でした。

見たところ、60歳前後の、眼鏡をかけたその男性は、この深夜の出動命令に対して、信じられないくらいの嬉しそうな笑顔で現れたのでした。

まるで、「呼んでくれてありがとう。仕事がないのが一番嫌なんです」とでも言いたげな笑顔です。

確認のために機械に向かって歩く彼の後姿を見て、私は「あ」と思いました。

彼は、片足をひきずる、独特の歩き方をしていたのでした。「子どもの頃ポリオに罹ったから」ある年代の人のなかに、そういう人がたまにいます。私にとって少し年上の人たちです。思慮が深くて、人の痛みをわかるような、私の大好きな人たちでした。

その歩き方は、私に、人生の中で何度か出会った、懐かしい人たちの優しさと励ましを思い出させてくれたのです。温かい記憶を呼び起こす、そんな係員さんの後姿でした。

「さあ、開きますよ、どうぞ気を付けてお帰り下さい」そう言って、彼は私にこの上ない笑顔をくれました。

「ありがとうございます。助かりました」私はそう彼に声をかけて車を発進しました。

笑顔で私を見送る係員さんの姿には、私のようなうっかり者の、困っている誰かを助け出すこの仕事を、心から気に入っていて、誇りを持って働いている、そんな思いがにじんでいました。

いつのまにか私は、彼に会えて良かった、と思っている自分に気づきました。

最悪の後ろに、いいことがついててくる気がした、不思議な夜でした。

これだったのか と思いました。夜の高速道路にクルマを走らせながら、いままで出会った、優しい人たちのことを、ひとりひとり思い出していました。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です