「言い方」という言い方が好きな理由。

年度末の季節、みなさん気が立っているのか、このごろ「そんなことでこんな言われ方をするなんて・・・。」と感じるような、言葉の攻撃を受けることが ありました。

激しい攻撃を受けた時は、やはり体が反応して頭に血が昇り、心が硬く閉ざされたような状態になります。おびえと怒りが同時におしよせてきて、こころが不安定になることもあります。

「私自身に問題があるのかな」と一瞬考えますが、少し落ち着いてみると、「そういう人は、誰に対しても同じような接し方をしている」ことに気づきます。つまり、「これは『私の問題』ではなく『ご本人の問題』なのだ」とすぐに気づくのです。客観的に考えても、私が悪いわけでもなさそうです。

怒りと不安に包まれている私のそばにいた、ごく親しい女性が言いました。「大丈夫、大丈夫、『怒り』は2時間で消えるから。ためしに、2時間後に自分の感情をながめてみるといいですよ」

・・・なんとものんきなアドバイスですが、そう言われてしまうと、実際、2時間後の自分に興味が湧いたりもするのです。そして、彼女の言う通り、2時間後の自分は、もうすでに、「次の自分」になっていて、「不当な攻撃を受けて怒りをおぼえていた自分」という2時間前の自分を眺めていることに気づくのです。もちろん「不当な攻撃」をした人は「問題を抱えた人」という、遠い存在として、さらに小さな「こころのカプセル」に収まってくれているのですが。

こんなときに、最近はやりの言葉をつぶやいてみます。

「あの人さぁ、『言い方』よねぇ・・。」

私は、この『言い方』という言い方が、ちょっと気に入っているのです。攻撃性の強い人の発言を、まっすぐ受け止めて傷ついたりするのではなく「あの人は少し『言い方』に問題を抱えている人なのだ」と認知する、そんな冷静な視点を与えてくれる言葉です。たぶんその人自身も、育つ環境の中で、誰かから「そんな『言い方』を受け続けた人なのだ」と。

ときには、こんな風にも続きます。

「あの人さぁ、『言い方』よねぇ・・・。悪い人ではないんだけど。」

「あの人さぁ、『言い方』よねぇ・・・。言ってることは正しいんだけど。」

つまり、その人の人格を全否定するのではなく、その人のコミュケーション法だけに光をあて、部分的にそこだけを「問題」として眺める、余裕のある態度だと思うのです。「『言い方』を憎んで『人』を憎まず」とでも言いましょうか。

この言い方を、こころにつぶやくようになると、きつく感じていた言葉も、少し冷静に見つめることができるようになります。

攻撃性の強いご本人の行く末を、少し心配しながらも「きっといつかは『言い方』の上手な人になってくれる、そのときが来たらいいな」と思いながら、今はこころのガラス窓を静かに閉めて、こころの「ソーシャルディスタンス」をとるようにしています。私の人生の時間を大切にしたいからです。

もしもそれでも、そんな人のことを忘れることができず、いつまでもいつまでも思いだして怒ってしまうのだとすれば、そのとき初めて、このできごとが「私の問題」となると思うのです。私の中のなにかが「そんな人」にひっぱられている、執着しているということになるのかもしれません。そんな自分自身も冷静に見つめ、手放したいのです。

攻撃性の強い人々を、私に変えることなどできません。思いっきり放っておきましょう。合言葉は「あの人さぁ、『言い方』よねぇ・・」ですね。

 

 

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