阿修羅展の思い出(刹那と永遠 2)

その思いにとらわれたのは、2009年の9月のことです。

「国宝 阿修羅展」に行きたくて、九州国立博物館に行った時でした。阿修羅を見たいとずっと思いつめていた私は、5時間待ちだの6時間まちだのという行列の噂に尻込みした家族を置いて、たった一人で、あのものすごい長蛇の列に挑戦したのです。

暑い夏の名残が、まだ残っていました。熱中症予防のミストが頭の上に降りかかっていたのを覚えています。深々と帽子をかぶり、ペットボトルの水を飲みながら、4時間並び続けました。

「信者だな」と、初めて思いました。

見知らぬ者同士の行列仲間と、いつのまにか連帯意識が生まれて、仲間同士のような気持ちになって、優しい心になってきます。もしも誰かが倒れても、きっと助け合うだろうな、みんな「阿修羅に会いたい」という、あこがれにとりつかれた信者仲間だから。自分でも、おかしいくらい、会いたい気持ちがつのったころ、「やっとアシュラに会える」と書かれた看板にたどりつくのでした。

びっくりするくらい快適な空調の効いた展示場で、私は、あの阿修羅の姿に目を奪われ、くぎ付けになりました。

少し離れて対峙すると、ちょうどぴたりと目があって、阿修羅は、すきとおった視線で、射抜くように私を見つめていました。私は全身の鳥肌が立つのを感じました。その美しさに魅入られたのでした。

阿修羅の華奢な体や繊細な顔つきは、きわめて若い時期の、思春期の少年のようなフォルムでした。その表情も、体型も、「その生涯のうちのほんの一瞬、奇跡的に美しい一刹那」を切り取ったとしか思えない、そしてそれを、漆で仕上げて、千年ののちまで長期保存の魔法をかけた、そうとしか思えない姿でした。

「人々が、長い距離と時間を超えて、会いにくるわけだ」

芸術の意味や、仏像の(あるいは全ての宗教芸術の)意味が、やっとわかったような気がしました。

今回の美術館巡りの旅によって、私はもういちど阿修羅展の記憶をたぐります。

あれから10年近く忘れていた、あの感覚によく似た思いをさせてくれたからです。

 

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