世界は前に(卒業の春に)

今日で、2月も終わりますね。

今月は、世界が前に 前に進んでいることを実感させられるニュースがいくつもありました。

「アカデミー賞は『多様性』に光を当てた作品が多く受賞」「大津いじめ自殺判決 賠償責任は保護者ではなく本人に」「沖縄県民投票で民意が世界に」「児童福祉法の改正案検討 親の体罰禁止 子どもの『意見表明権』を認める」・・

子どもは親の「持ち物」ではないです。子どもの「しつけ」をしなければ、と親が思いつめて子どもを懲らしめる時代は終わりました。「子どもが自分の意見を表明する権利」は、「子どもの権利条約」で、国際的には日本でも認められていたことになっていたはずなのですが、おくればせながら日本の親が、それを自覚するときが やっと来た、私はそう思うのです。

子どもにだって、自分の気持ちに正直に生きる権利があります。

子どもは、親のものではないです。

人は、だれのものでも ありません。人は、自分自身のものです。だから、人に支配されたり、洗脳されたり、期待に応える人生を歩まされたりすることをこばむことも許されています。アカデミー賞で寿がれた「多様性」も、「沖縄の民意」も、すべてがそれを示しているような気がするのです。

ひとのこころに手をつっこんで、「こうしろ」と支配することが、いかに人のこころを壊すのか、互いのためにならないことか、世界がそれに気づき始めたと思われてなりません。

人の心は、自分のものだから、こころの矢印を大切にする方が、体にもいいし、なにより、「しあわせ」ってそういうことだと思います。だから、「自分のこころ」は世界のなによりも優先されると、私は思うのです。それはもちろん「オヤ」だけでなく「イエ」とか「クニ」とか「空気」と名の付く「同調圧力」よりも、です。私はそう思います。

下の子が学生生活を終えて、社会人になろうとしています。「引っ越し」「卒業」「入社式」そんな春です。

私は「親としての役割」を卒業します。

「さびしいでしょう?」とまわりの人にきかれることが多く、「ここで 『さびしい』と答えるのが正解だ」という空気を感じることもありますが、実は、さびしくないのです。

そもそも彼らは、最初から私のものではなく、彼らは彼ら自身のものでした。私には大切な人だったけれど「手放す」とかいう言葉すら私にはありません。

旅立つ娘を駅に送るとき、「元気でね。親孝行なんて考えないで、前に進んで」と声をかけました。娘は「親孝行しようなんて考えないけれど、ときどき一緒に楽しむかもしれない」と笑いました。

どうか、あなたの心をなによりも大切にね 願うことは、これからも、ただそれだけなのです。

 

 

 

 

2 Replies to “世界は前に(卒業の春に)”

  1. 私は2年前に、三女を送り出し、私もあなたと同じように、周りの人に「さびしいでしょう?」と聞かれます。否定すると、無理してるとか、かわいくないと言われます。余計なお世話です。子育てを卒業して、今は娘たちが自分の人生を自分の足で歩んでいくのを応援するだけです。母は、気楽なおひとり様を満喫しています。

    1. orionさんへ

      「母は、死ぬまで母のままでいるはず」という世の中の期待を感じる瞬間ですね。「母」を卒業して、「私」に戻り、「親子」ではなくなり「大人同士」として、彼らとつきあっていくのもいいですよね。

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