「先生」を辞めました。

「‍学校の先生」を、この春退職しました。58歳、与えられた年限より5年早く、自分自身で幕を引きました。あたたかく見送ってくださったみなさん、36年間に出会ってくれたみなさん、本当にありがとうございました。

1988年春、大学の教育学部を卒業した私は、子どもの頃からの「学校の先生になりたい」という夢を叶え、浮かれていました。そんな私を嘲笑うかのように、現実は厳しいものでした。

心と体を損なうことなく、こうして無事に退職できたのが、正直「奇跡」のようにも思えます。

教員生活は、楽しいことも多かったのですが、思えば「ほっとする」瞬間は、一秒もありませんでした。私のもてる力の斜め上をいく難しい責任が、毎秒毎秒、試練のように私を待ち受けていたからです。

授業以外の業務の、あまりの多さに、体と心がおいつきません。分掌業務、部活動顧問、調査統計のための事務仕事に追われ、「授業者であり生徒の応援者である」という本来の仕事を見失いそうになることもしばしばでした。

生徒のこころをを大切に、傷つきやすい十代の若者の応援者になりたいと願っても、自分の無力さに打ちのめされることの多い日々でした。休日も余暇も、体力の温存のために過ぎました。勤務の問題が頭から離れず、眠れない夜もありました。感情労働者として必要なはずの「充電の時間」はなく、心はカラカラに乾いていきました。

公務員という立場のため、政治的中立という名の圧力を常に受けていました。「公僕」という言葉に縛られ、文科省や教育委員会の指示に従うことを余儀なくされ、自分の思いとはちがう言動を自分に強いた瞬間も、一度や二度ではなかったように思います。「公の奉仕者」という見えない鎖で心を縛られ、公務員に向けられる世間の厳しい目を意識し、自由にものを考えたり、自由に発言したりすることを、いつしか封印してしまいました。

結婚して子どもを持つと、未来や社会のことを考えるようになりました。この子たちが大きくなったとき、未来の社会はどんな風に変わっているのだろう?もしも我が子に「先生になりたい」と言われても、喜んですすめられるような、人間らしい仕事であってほしい。誰もが家庭生活を犠牲にしなくてもやっていけるような仕事であってほしいと願いました。

幼な子を育てる私は職員室では少数者でした。勤務時間が終わっても、職員のほとんどが当たり前のように無償で残業を続ける職員室を、ひとり抜けだして保育園に向かう時の、もやもやとした罪悪感と孤独感は忘れられません。子どもを産んだ私が悪いのか?いや悪いのは私じゃない、この異様な「先生の働き方」をなんとかしなければ、教師というこの仕事は、あまりにもきつくて、若い人がなりたがらない職業になってしまうのではないか、という予感がしました。子どもを産んで、育てながらでもできる働き方になってほしい、10年先にはそうなってほしい、と願いました。幼な子を抱えている自分だからこそ、わかること、見えるもの、言えることもあるのではないかと、働き方について、手をあげて発言したために、ますます孤立した時期もありました。嫌われながらも、嫌われても、現場をどうにかしようとして、どうすることもできませんでした。

私の子ども達は成人すると「先生になりたい」とは一言も言わず、民間企業に就職していきました。

「教員の働き方改革」が話題になり始めたのは、ここ数年のことです。50代後半にさしかかっていた私は、「残業をしない働き方」のお手本を後輩に見せようと考えました。子育て時代に培ったタイムマネージメント力をフルに発揮し、勤務時間は集中して仕事をし、終業時間にはみんなに背中を見せて颯爽と退勤するようにこころがけました。余暇や休日に旅行に行ったりすることで、気もちを切り替え、心を整え、次の日の勤務に豊かな心で向き合うことができるようになりました。最後の数年間は、私の思う「理想の働き方」に近づいたように思います。

残業をしない、私のような働き方でもやっていけると証明できれば、きっと教育現場は変わるはず、教員の心に安心感が広がれば、子ども達にも良い影響があるはずです。私の後を、若い人たちに安心してついてきてほしいと願ったのでした。かなりの割合の同僚が、終業時刻に職場を離れるようになりました。時代の潮目が変わりつつあります。けれど相変わらず多くの同僚が、無償の残業の中にいます。『帰りたくても仕事が終わらないんです。』と嘆きながら。

「先生の働き方」は、近年さらに苛酷なものになりました。複雑化する業務や家庭への個別対応に加え、万一学校事故や過失があれば、先生個人が罪を問われる判例が重なり、多くの先生たちが訴訟されることに備えて自分自身で保険に入る時代となりました。なんでもできて当たり前の存在だから、先生の努力や成功は褒賞されることはありません。もしも失敗すれば懲罰や断罪が待っています。綱紀粛正の名のもとに、不安を煽るような職員研修が増え続けました。いつしか心が不安に支配されるようになり、ミスを恐れ、怯えを抱きながら働くことが常態化してしまいました。

私が心配した「なり手不足」の問題は現実のものになりました。少子化の問題から、子育て支援の制度は充実しましたが、若い先生たちの表情はどこか曇って見えます。私を送り出す職員室もまた、「教員のなり手不足」のために人が足りず、欠員を抱えた不安定な状態のまま、新学期を迎えるからです。子ども達のためにできる最大の贈り物は、環境を整えることなのに、それすらできずに、日本のあちこちで学校は4月を迎えようとしています。

私の好きだった『学校』を次の世代の子ども達に、きらきらと輝かせて手渡したかったのに、私の力ではどうにもできませんでした。

無念さが、じんわりと私を包みます。

失望はたしかにあります。けれど希望の火もまた、私の中に、まだかすかにあるのです。

36年間の教員生活は 試練の日々でありながら やはり愛しい思い出の宝石箱でもあるのです。何千もの出会いが 私に与えたレッスンは、私という人間を深めてくれたと確信します。私を大人にし、生きさせ、大切な家族を養わせてくれた、この職業への感謝と誇りも、あるのです。

そして今、私が「公の奉仕者」という立場を手放したからこそ、得られるものがあります。その鎖を自らほどいた私は、これからは、自分の思いを、正直にに語ることができるのです。

これから私は、何を語るのでしょうか。自分でも予想がつきません。できれば未来に希望をつなぐような、こころのつぶやきを綴りたいのです。

明日からの私は、再び「表現の自由」を手にするのです。それが私の、一番の「退職の理由」なのです。

 

 

 

 

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