その『罪悪感』はもういらない

「今年のお盆は、『帰省するかどうか』を慎重に考えて・・」「帰省するな とは言わない」「本当は自粛してほしい」「オンライン帰省をすすめます」「帰省する人を差別しないでほしい」・・・・。政治家や有識者の発言が次々とニュースとなり、それがまた新たな論議を呼んでいるようです。この国の人々にとって「お盆の帰省」というものはよほど重要な課題なのでしょう。人々は「正解」を求めています。「みんなは どうする? 私はどうしたらいい?」と。

「お盆はふるさとに帰省するもの」長いことそう信じ込まされてきた私たちですが、この夏「考えがまとまらない政治家」たちの迷走した発言の数々によって混乱させられ、初めて「正解のない」夏を迎えています。「GOTO という政府の”独り言”」を聞いたからと言っても、仮になにが起ころうともあなたの自己責任ですよ、と言われているのです。今まで「並んで並んで!一列になって『小さく前にならえ』して!」と言われ続けた人々が、この夏、突然初めて「自分の判断で行動すること!」と言われているのです。

とてつもない「不安」からくる攻撃の矛先を、政治家ではなく「帰省した一般の人」に向けることだけは、避けたいと思うのです。

いま、この国の上を覆っている「不安」は、「コロナ感染への不安」以上に、「自分の行動が誰かに非難され、差別され、特定され、拡散されること」に対する不安の方が強いようです。つまり「コロナよりも世間が怖い」という状態、すべての行動が誰かに監視され、「不正解」な行動をとったときの叩かれようが異常に厳しいからです。人々は「コロナ下で生きのびる」ために、感染予防対策以上に「世間」に対して敏感になっています。

「攻撃されるのが怖い」と言う気持ちが嵩じて、逆に攻撃的になってしまう人がいます。「不安」の強い人は、自らを律しながら「常識」を逸脱した人を攻撃しがちです。ある種の「いじめ」や「パワハラ」「ネットでの攻撃」の加害者とされる人は、「正義の代表者として集団の輪を乱す逸脱者を制裁しなければ」と信じる人が多いようです。つまり「いじめ」や「パワハラ」の真犯人は加害者本人というよりも、「多数派」の中にある「正義感」や「同調圧力」なのです。

「”みんな”はどうしているのか」という「正解」を求め、少しでも多数派の側につくことで安心を得、「”みんな”と違う行動をとる人」を、「ちょっと変わった人」「迷惑な人」という目で眺め、疎外しようとする空気を、私たちは長い歴史の中で習慣化してきました。

それでも、私たちの人生の目的は「ちょっと変わった誰かを攻撃すること」でなかったことだけは、確かです。

去年までの私たちは、コロナもなかったし、移動できないという悩みとは無縁でした。ならば昨年まで「自由」だったのか というと、決してこころは自由ではなく、やはり違った意味での「罪悪感と同調圧力」からの支配を受けていました。

「お盆はいつ帰るの?なぜ帰らないの?親孝行しないの?ご先祖さまと親戚に顔を見せに帰らないと。」という親戚からのプレッシャーが過去にはありました。会社の同僚や取引先との会話の中でも、「ご実家はどちらですか?お盆はどうしますか?」という季節の話題が飛び交い、「実家に帰ってゆっくりします。」という「正しい解答」をしないことには、「帰らないんですか?親御さんが待っていますよ」とたしなめられ、「親不孝者という罪悪感を刺激する空気」に圧迫されながら、私たちはこの季節を過ごしてきたのでした。

どんなにお盆の帰省ラッシュで飛行機チケットの値段が高騰しても、どんなに新幹線の乗車率があがって、幼子を抱えて何時間も満員車両に立ちっぱなしでも「お盆に帰省するのが普通の人」というモデルがニュースなどによって作り上げられ、帰省できない事情の人や、帰る家のない人の存在など、まるでこの世にいないかのように扱われ、息をひそめるように過ごす、それが去年までの この国の風景でした。

その「お盆は帰省するものだ」という空気に対して、長い間「この『圧迫感』重すぎる」と感じてきましたが、今年はそれがありません。同調圧力同士が乱反射した結果の「解なし」が、この夏の真ん中を変えたのです。

今年の夏は、偶然にもその「圧迫感」から解き放たれ、次の新しい日々へ向かって、ゼロから行動を決めるチャンスをもらったのだと思います。世界がリセットされたのです。「親戚だから会食しなければ」という、あの「罪悪感」も、もう必要ないのではないでしょうか。

今後「人と会うこと」が「役割」ではなくなり、それぞれの主体性で一歩ずつ踏み出し合う、本質的なことがらになるかもしれません。「会うべき人」ではなくて「会いたい人」に会うだけで、人生はけっこう忙しいものです。会いたい人に会うのに、お盆である必要はありません。

私自身、年齢を重ねるごとに、愛してくれた人は彼岸に渡り、心の中で亡くなった人と話をすることが多くなりました。

お墓に参ってご先祖と語らいたい日はありますが、普通の日に、しずかに参りたいのです。かつて『檀家制度』を為政者がすすめた数百年前、まだ移動が広範囲ではなかったころなら、この『お盆』の帰省や親族の集まりは素晴らしい習慣だったかもしれませんが、こんな風に世界が激変し、移動距離に無理が生じた今、その「絶対参加というこだわり」を手放すときがきているのだと思います。

我が家では、娘も息子も、私たちも、今年は帰省をしません。さびしがったり残念がったりするのはやめようと思います。互いの休日に子ども達とオンラインで語り合い、たわいない話をしてけらけらと笑い合い、おすすめの映画やドラマを紹介し、ネット視聴してその感想をまた語り合う、夏の休暇のゆったりとした時間は、いいものです。そんな一日をしっかり味わおうと思います。

このさい、もう「帰省ラッシュ」なんて言葉は葬り去りませんか。いっそ帰省のハイシーズン自体がなくなるほどに、取りたいときに夏季休暇がとれて、帰っても帰らなくてもまったく当人の自由 という時代が来ればいいのにと思います。

「みんなのするようにする」ことは「行列」や「渋滞」のもととなり、密集をまねくだけです。「みんなとちがう」ことを恐れず、「みんなとちがう」人を攻撃しないで認め合い「それぞれのタイミングで行動する」ことが、実は「みんな」を救う最善の道なのだと思います。

そもそも「普通の人」と「普通じゃない人」との仕分けは必要でしょうか。私たちはただ「善く生きよう」としているだけなのです。

「なにもしない」ことにも「帰省」しないことにも罪悪感をもたず、「帰省する人」も「帰省しない人」も、お互いがお互いのことを受け入れ、より多くの人が「安心」できる世の中にしませんか。不安がやわらぐことで社会全体の免疫力も高まり、病の予防や克服に専念できる気がするのですが。

 

 

 

 

 

 

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