ひとつの結末(100投稿を節目として)

書き始めて1年半のこのブログも、ついに投稿回数100回目です。半世紀あまりの半生を振り返る作業も、長いことかけて ここまでたどりつきました。

朝のコーヒーを自分のために丁寧に淹れながら、今日という一日を祝う自分に気づきます。自分がOKかNGか、生きる価値があるのかどうかという評価を気にしていた日々のことを、嘘のように遠く感じます。

なぜ、あんなにも自分を責め、自分自身をいじめていたんだろうと、不思議に思うほど、今の私は、自分に優しくなれるのです。こころが自由なのです。苦しかった過去は、はるか遠いところに押しやって、私は、この素晴らしい人生を生きることに決めたのです。今はもう、世界中の他の誰をも羨ましいとも思わず、自分のこの人生ほど素敵なものはないような気がするのです。

自分のために淹れたコーヒーを、ゆっくりと味わいながら、私はこうも考えます。

世の中の人は、みんなどこかで それぞれのこころの傷を持ち、その痛みを抱えながら生きているのでしょう。だから、攻撃的な人、卑屈な人、支配的な人もまた、そのこころの底に、幼い日の泣き顔を隠しているのでしょう。

ときどき、自分がこの世に生まれたことについて考えます。

自分が、この世に受け入れてもらえないと感じた幼い頃から、私は自分が生まれてきたことの意味を、探していました。

今はもう、何も探していません。

こんな自分の人生にも、意味はある、と感じられるからです。

子どもの頃、いちばん愛してほしい人たちから嫌がられ、悩んだからこそ 私には見える景色があったのです。

だからこそ、大人になったときに少しだけ、人よりも「人のこころ」がわかる大人になれたのです。自分の意志で自分を助け出し、幸せを感じることができるようになり、私には、自分の人生が、素晴らしい、意味深いものに思えるのです。

親から、その存在を否定されて育つ子どもたち、生きづらさを抱える若者たち、いくつになっても、幼いころにかけられた呪いに苦しむ大人たち。そんなすべての人のそばに立って、「本当は、あなたは悪くないんだよ」と伝えたい。黙って肩を抱いていたい、そう思います。

せめて、こんな私の人生を、あなたにとどけたい。

それが、この優しい世界への、小さな贈り物になるのなら、私にも、生まれた価値があるのでしょう。

私はそのために、この世に降ろされたのかもしれないとさえ思います。

こんな風に、五十にして自分の天命のようなものを知って、ここからの人生を生きることができるなら、つらかった記憶は、すべて大事なレッスンにしか思えないのです。天が私に与えた、どれひとつ外せないカリキュラムなのだと。

私の人生は、一から百まで素晴らしい、情けないことも、恥ずかしいことも、すべてに意味があった。どれひとつをとっても、無駄な瞬間はなにひとつなかったのです。

生まれたときからやり直せるとしても、私は、同じ人生の私に生まれたい、今の私なら、こころからそう思うことができるのです。

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