イギリスへの旅の話2

私が、初めての海外となるイギリスに向かったのは、1986年の春でした。初めてのパスポートを取り、初めてのスーツケースを借り、初めての飛行機に乗って成田空港に行き、初めての海外への航路に乗ったのです。20歳でした。

飛行機は、キャセイパシフィック機でした。バーレーンで給油したので、23時間かかる長旅になりました。地球の回転に逆らって飛ぶということが物理的にどういうことなのか、よくわからないながら、窓の外の雲海を夕日がいつまでも照らしていたような気がします。(逆に帰りは、短いうちに何度も夕日と朝日が訪れていたような記憶があります。)

バーレーンで給油している間、トランジットカードをもらって、空港に降りてみました。真夜中でした。真っ暗な空とサソリのいそうな砂漠に囲まれた景色に圧倒された私は、たぶんふわふわとしていたのでしょう。信じられないことに、持っていたトランジットカードをどこかに置き忘れ、無くしてしまっていたのです。

それから混乱し、焦って、初めての英語で必死でまくしたて、何としても乗せてくれと、搭乗口で係の人に頼み込みました。なぜか係の人は、全員 アラブ系の、白いカンドゥーラを来た男性ばかりでした。私の英語は全く通じなかったけれど、私はカードなしで乗せてもらうことに成功しました。たぶん彼らは、面倒に巻き込まれたくなかったのでしょう。

そんなことがあったためか、長い長い空路が終わるころ、私にはイギリスが、安心で、安全な場所に思えてしかたありませんでした。

無事にガトゥィック空港に着き、バスに乗り、ハートフォード州のウェアタウンという、ロンドン郊外の町に着き、ホストファミリーに出会えた時は、安心感で胸がいっぱいになりました。なつかしい家族にやっと会えたような気持になりました。

ホストファミリーは、40歳くらいの夫婦に、子どもが2人という4人家族でした。11歳のカレンと9歳のデボラは、2人とも 利発で きちんとしていて それでいて子どもらしい目のかがやきをもった女の子たちでした。

同じスタイルのレンガ色の家が延々と並ぶ住宅街の一角が ホストファミリーの家でした。毛足の長い、おとなしい犬が、犬を苦手とする私のために、家の奥の方に隠されて、いるのかいないのか分からないくらい存在感を消していました。(そう、あのころの私は、まだ犬を怖がっていたのです。)

私には、2階の、清潔なゲストルームが与えられました。すぐにホスト母のドロシーは、私にベッドメイキングの仕方を教えてくれました。必要なことは教える、そのかわり手を出さない、それが彼女のやりかたでした。

洗濯は週に1回、お風呂にお湯を張るのも週に1回、買い出しも週に1回、朝食はシリアルだったり、トーストだったりし、夕食はワンプレートだったり、フィッシュ&チップスで済ます日もある。あまり家事に時間や労力を割かずに、それでいて誰も罪悪感を感じていない。そのかわり、家族でゆっくりと語り合う時間を大切にしていました。

ホスト父は、1日に何度も「お茶いらない?」ときいて、紅茶を入れるのが好きな人でした。お茶を入れることと、お皿を洗うこと、これは父の役割のようでした。

「私の日本の父は、お茶も入れないし、お皿も洗わない」と言うと、彼は微笑んで「イギリスも、20年前はそうだったよ。日本も20年たてば変わるよ」と言ってくれました。彼の入れてくれたミルクティーのおいしさは、今でも忘れられません。

家族の一員として暮らす私には、お客様扱いはありませんでしたが、ひとりの人間として尊重してもらえる感じがありました。

ドロシーは、2人の女の子について「私は、私の素晴らしい娘たちに 誇りをもっているの」と、胸をはって語っていました。本人たちの前でも、他人に向かっても、いつも変わらず娘たちを、そのままに尊んでいたのです。そこには日本人にあるような謙遜や、自分の子どもに「けちをつける」親の姿は微塵もありませんでした。まして子どもの性別についての不満など、いっさいないようでした。女の子が続けば男の子を欲しがり、男の子が続けば女の子を持つ人を羨ましがる、日本の親たちの姿を、私はそこで文字通り地球の裏側で起こっている悪趣味のように感じ始めたのでした。

もっとも、当時のイギリスは、ダイアナ・ブームにサッチャー首相、国王はエリザベス女王でした。だから「女性の存在感」は、日本とはまるで違っていたのです。女の子たち自身も、屈折することなく成長することを許されていたような気がします。

ただ、「大人の国」と言われるイギリスでは、大人の都合でものごとがすすむことも学びました。友人を招いてホームパーティをするときは、子どもたちは客人に挨拶をしたあと、食べ物を与えられ、子ども部屋に行かなくてはなりません。大人同士のパーティなのだから、子どもが勝手にうろうろしたり、大人の会話を聞くことさえ許さないというルールがありました。(私はもちろん、二十歳を過ぎていましたから、大人扱いされていました。)

だから、電車やバスなどの公共交通機関でも、大人は座り、子どもは立っていました。大人に甘やかされたり、抑制のない態度をとる子どもは、とても少ないと言う印象を持ちました。もちろん、公衆道徳にたいしてプライドのある市民が多く、ドアを開いて後ろの人を待ったり、それにしっかりとお礼を言ったり、誰もがお互いに親切で行儀の良い町でした。そしてルール違反をする人には 行きずりの人でも、落ち着いた大人の声で 注意をします。

イギリスと日本は、特に子育てに対する根本の考え方がちがっていたような気がします。

「カレンとデボラには、何の職業についてもらいたいの?」という私の質問に、「それは本人たちが決めることで、私が考えることじゃないわね」と、即答したドロシーでした。そのとき、こんな答えを返す日本人が、いったい何人に一人いるのだろうと思いました。

「子どもは親の持ち物ではない」「子どもは、子ども自身のものだ」そんな発想が、そこにはありました。社会福祉の行き届いたこの国では、「子どもは社会からの預かりもの、やがて社会に返すもの」という発想もあったのでしょうか。

これは、文化の違いによるものでしょうか。

それとも、たまたま彼らがそんな家族だったのでしょうか。

あるいは、私の両親が、たまたま「子どもは親のもの」という支配的な考え方の人だっただけなのでしょうか?

とにかく、初めて、「よその家族の一員になる」という体験をした私は、今まで信じていた当たり前が、当たり前でないこと、価値観の違いという真実は、世界中いたるところにあるらしいということを、実感として受け止めたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

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