勝ち負けのない 夏

高校3年生、それはきわめて大切なときです。人生の岐路に立ち、大切な選択をし、一日一日を輝いて生きる時期、ひとつひとつの経験が濃厚な意味をもち、生涯忘れえぬ季節。

そんな若者たちを応援し、励ます思いの強い私にとって、コロナ禍による「インターハイ中止」「甲子園中止」それと同時に文化部のさまざまな大会の中止は、あまりにも重いものでした。

本人たちの失望もさることながら、十余年間の部活動生活をうしろで支えてきた家族の気持ちはいかばかりかと思うと、気持ちがふさぎます。

内田樹さんが、その著「負け方を習得する」の中で、高校野球の教育的効果にふれ、「人生は負けることの方が多く、全国優勝校を除いた高校球児のほとんどは、最後に負けることを通して、立派な負け方の技術を習得する」ということを説いていました。人は誰でも、若いころを通り過ぎれば、大人になるけれど、そのときに内田樹さんのいう「負けたり、負けたり」の「負け方の技術」が人生に生きる、というのです。昨年までの、最後に負けて終わる機会が与えられた先輩たちまでは、それは確かに真実でした。

負ける機会さえ与えられない全国の今年の高校生たちは、春夏すべての公式戦中止のこの季節から、何を学ぶというのでしょうか。

あらゆる部活動の生徒や、甲子園を目指す高校野球部の若者が、そのために、どれだけ多くのことを犠牲にしてきたかを、私は知っています。かれらの多くが、炭酸飲料やスナック菓子を自粛し、学習塾や他の趣味、スマホまたはLINE、あるいはゲームなどをあきらめて、部活動だけに集中してきたかを知っています。どれだけ多くを犠牲にしても、ほとんどの選手は最後まで背番号をもらえず、ベンチにも入れずスタンド席で最後の夏を迎えることも知っています。小学校、中学を経て、自分の限界を少しずつ悟りながら、現実と折り合いをつけながら、ベンチに入れなくてもチームのためにと自身をはげましながら、彼らは最後の夏をめざして努力を重ねてきたのです。かれらの半数は県大会の一回戦で終わってしまうけれども、それでもその県大会の第一回戦すらできなくなるとは、夢にも思っていなかったのでした。

この夏の、そして春の出来事は、かれらに何をもたらすのでしょうか。かれらは、ただ「無駄な努力を重ねた、アンラッキーな世代」なのでしょうか。

私は、そうは思いたくないのです。

全国大会に出場したり、テレビに映ってもてはやされたり、あるいは県大会で勝ち進んで町の噂になったり、完全燃焼して次の季節に向かったりという、彼らの望んだ夏は、確かに、消えてしまいました。それでも私は、「この夏の経験は、人生の大きな財産になる」と信じているのです。

今年の高3生には、「負け試合」すらありません。「勝ち」も「負け」もない、すべてが不戦勝で不戦敗なのです。そして、それは、まちがいなく「本人たちにしかわからない記憶」として共有されるのでしょう。

「勝ち負けのない夏」は、もしかしたら新しい時代の最先端の生き方として、若い彼らの未来につながっていくのかもしれないと思うのです。

「俺たちは、あの『勝ち負けのない夏』を過ごしたのだ」と、ともに語り合う仲間が全国にいる、という未来の人生が始まるのです。

自分たちには、選手も補欠もベンチ組もスタンド組もなく、優勝チームも一回戦負けチームもなく、まったく分断のない、自分たちだけにしかわからない思いを共有した全き仲間が、あなたの人生に贈られたということなのだと思います。そしてそれは、限りない共感となって、一生をつらぬく連帯感となる気がするのです。

そんなことを考えても、目の前の若者に語る言葉はありません。あなたの人生の痛みは、あなた以外の誰にも理解できないからです。

応援します。あなたがその痛みを乗り越える日がくることを、信じています。

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