「自動更新」された人生

秋空が心地よい週末 門司の街を久しぶりに歩きました。

この街は、九州の鉄道の終点の駅として、そこから世界に船出する海の玄関口として、長く繁栄の歴史を誇りました。近代文学やノンフィクションの舞台として数多く登場する、いわば物語の『聖地』でもあるのです。街のいたるところに残された古い倉庫群や煉瓦造りの豪華な洋館が、在りし日の この街の豊かさを物語っています。

海峡の向こうに見える下関の街に、観光船で渡ることもできますが、関門海峡を行き来する外国船を、ただ眺めているだけで、時のたつのを忘れるような気持ちになります。港に船を入れるために造られた跳ね橋も、風景に趣を与えてくれて、まるでおもちゃのジオラマのような面白い街です。流れてくる音楽、香ばしく美味しいものの数々が混ざり合った匂い、肌にあたる心地よい海風、なによりも素晴らしいのは、ここにいるほとんどの人が、クルマにもバイクにも乗ることなく、ただゆったりとそぞろあるき、同じ空気感を共有しているという安らかさです。

夕暮れとともに、小さなバンドが野外でジャズを奏で始めました。海沿いの工房で造られた地ビールのカップを手に、海風の吹く階段に座ります。人々はいつのまにか大人ばかりになり、行儀よく距離を保ちながら、ジャズの響きに耳を傾けています。

夜が更けるころ、展望台の入り口に私は立っていました。

私は実は『高所恐怖症』だったのです。

『高いところ』が怖くて、足に力が入らず、気分が悪くなるという深刻な症状のために、今まで、高い所に昇る たくさんの機会をやりすごしてきました。

子ども達が一緒に乗りたがった観覧車、展望台、大きな吊り橋など、ほとんどの名所を、離れたところで見守るだけの私でした。この展望台にも、子ども達を連れて家族で訪れたとき、私だけは昇ることができず、ひとり この展望台の下で待っていた記憶があります。

それでも、今夜はなぜか『この展望台に昇りたい』という気持ちになったのでした。数年前、心の傷を癒し、トラウマを取り去る「再決断法」のセラピーを受けたとき、先生が言った「あなたの『高所恐怖症』も治りますよ」という言葉を思い出したからです。

私の心に棲みついた「怖い」という強い思い込みのもととなる経験を「書き換える」作業をすることで、私の高所恐怖症自体が消える というのです。

幼少の頃、夜泣きの罰として父親に足首をつかまれ、逆さまの状態で窓の外に吊るされる、という折檻を受けた私は、自分の存在自体という「罪」によって、奈落の底に「投げ落とされるかもしれない」という恐怖心を、体中に染み込ませてしまったようでした。

大人になり、その恐怖心が「まちがった思い込み」だったことに気づき、自分が受けた不当な扱いに しっかりと怒りを感じ、遠くから眺め直すことによって、自分のトラウマを捨て去る決断をしたのでした。でも・・。

「あなたの『高所恐怖症』も治りますよ」・・・?。

ひとの性質が、そんなに簡単に治るものなのか?と、あの日の私は半信半疑だったし、セラピーが終わってしばらく経っても、自分の性質が治ったかどうかなんて、確かめる余裕なんてまったくないほどの忙しい日々を、ここ数年は送ってきたのでした。

それなのに、ふと、今夜は「この展望台に昇ってみたい」と言う気持ちが湧いてきたのです。

思いきって エレベーターに乗り込むと、扉が閉まりました。ガラス張りの窓越しに見える地面が、するすると遠ざかり、あっという間に、最上階に向かいました。

不思議と、足の力が抜けることもなく、体に震えや寒気が襲うこともなく、自分が、今までとは全く違う、しっかりとした感覚を持ったまま、見晴らしの良い場所に立っていることに気づいたのです。

それは、初めての眺めでした。

はるか遠くまで見渡せる場所から見下ろした、門司の夜景は、「綺麗」という言葉しか浮かんでこないほどの輝きでした。

この景色を、「綺麗」ではなく、「怖い」と感じていた自分が 確かに存在していたのです。そして、いまはもうどこにもいないのです。

私の人生は、あの日、助けを借りながらも自分の意志で「書き換え」をしたことで、あれから次々と、自分の望む方向へいつのまにか「自動更新」されていたのです。驚くほかはないのですが、それが 事実でした。

門司の街は、私の家から自動車で1時間ですから、今までも何度も遊びに来た街でした。そんななじみのある街が、いままでとまったく違う味わいで、私を迎えてくれました。

それはたぶん、私自身が、いつのまにか 以前と全く違う人間になったせいなのだろうと思います。「『自動更新』された人生」から見えるこの場所は、不安や恐怖といった煙幕が取り払われたあとの、澄み切った秋の空のような景色であり、その美しさを、私の五感に訴えてくれる世界にほかならないのです。

 

 

 

 

 

 

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