続・自分レスキュー その4(ひとの心をあきらめる)

両親の子ども心を癒すというメンタルケアをしてから、脳内に不思議な現象が起こり始めました。

一昨年の夏、旅先で搭乗までの時間つぶしに見た「未来のミライ」というアニメ―ション映画の記憶が、何度も頭の中に浮かぶようになったのです。前評判も何も知らず、本当にたまたまタイミングよく始まったから見ただけの映画です。

私にはその映画の良さはわからず、「時間つぶしとはいえ、なんでこんなものを見てしまったのだろう」と、苦々しく思っていた映画でした。けれど実は、あの日あの映画を見ることにも、なにか大きな力に導かれるような意味があったのではないかと、今は思うのです。

それは、母親に叱られてばかりの主人公の少年が、パラレルワールドに迷い込み、口うるさい母の少女時代にさかのぼり、幼い母の心の傷を理解する、というストーリーでした。その日の私は、その映画を見ていて、イライラしていたのです。「親には親の傷がある?だから何なの?そんなことは知ったことじゃない!」と叫び出したいような、不愉快に包まれていました。当時の私は、多くのことをそんな風に感じていました。

今、私が書いているこの文章をあの日の私が読んだら、あの日と同じような不愉快に襲われるのだと思います。「親には親の傷がある?だから何なの?それで何かが変わるの?」と。

もちろん、現実世界では、今のところ何も変わりません。あいかわらず実家では両親と姉たちが、大勢の家族を集合させたがっています。少人数での落ち着いた語り合いを避けたがる彼女たちに、本音の語り合いを望むのは、もうとうに諦めました。

「千と千尋の神隠し」というアニメーション映画にも、親の無理解は描かれていました。主人公は必死に働きます。それは、魔法で豚に変えられた両親を救うためでした。いのちを賭けて働くうちに、大きな成長を遂げた主人公でしたが、彼女の思いとは裏腹に、人間に戻ることの出来た両親は、娘に救われたことにすら気づかず、全く感謝も反省も成長もせず、相変わらず横柄な態度のままで、エンドロールを迎えるのです。この作品の後味は、いくら子どもの心が成長したからといって、親の心が変わってくれるわけではないという現実味を残します。

つまり、人のこころは、それぞれ別物であり、心を成長させることができるのは、その人本人だけなのです。「誰かのこころが変化することを願う心を、手放すべし、たとえそれが自分の親であっても、自分の子であってもだ。」・・・「千と千尋の神隠し」の、あの幕切れは、私たちに、その真実を、何度も何度も語りかけてくれているような気がするのです。

ひとりでしあわせになろう。過去へのこだわりを捨てて。

私は、愛してほしかった人たちのこころをやっとあきらめ、執着を手放すことができました。ただ、私の中だけで、私は勝手に生まれ変わり、記憶の上書きをされた世界では、幼いころから大切にされた私が、少し成長した顔つきで、落ち着いて、笑顔で座っているのです。

 

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