「後悔のない人生の秘訣は『決して後悔しない』と決めること」という言葉に出会ったのは、ごく若い頃でした。誰の言葉だったか思い出せませんが、当時の私は、人生の決断をする必要に迫られており、背中を押してくれたこの言葉を、今も忘れることはありません。
生きてきたわけじゃない
事故からちょうどひと月経ちました。体には、まったく後遺症はありません。ただ、あの日に感じた「ちがう世界に迷い込んでしまったかのような」心の変化はおさまる気配がありません。
沖縄を まだ 知らない
沖縄が大好きです。空から降りていくときの海の青さや、街にただよう懐かしい空気感 そして沖縄の人の温かなおおらかさに 魂を鷲掴みにされた人間のひとりです。そうやって、沖縄を語り、知ったつもりになっていたけれど、本当は、私は沖縄を、まだ、ほとんど知らないのだ と気づきます。今日は、1972年5月15日から50年目の 特別な日です。最近はずっと「沖縄を知らない」という思いに、なんども押し寄せられています。 “沖縄を まだ 知らない” の続きを読む
美しい 約束
通りすがりに 私を見て「ヒマそうだから」と話しかけてくれる子どもがいます。うれしいことです。「ヒマそう」は、私にとって、子ども達からの、*褒め言葉なのです。のんびりと生きている大人の姿を見せてあげられるのが、子どもへの「贈り物」だと思うからです。
マブイを落としてしまいました。
自転車通勤を始めて、もう一か月が過ぎました。納車の遅れたクルマを待ちつづける日々、自転車のペダルをこぐ17分の通勤路にも、慣れました。
その日は4月22日の金曜日の朝でした。一週間の仕事で少し疲れを感じていました。
つめこまれた仕事の内容が混み合いすぎて、どう頑張っても「不可能」な一日でした。せめて今日は早めに出勤しようと、いつもとは違う時間帯の通勤路を走っていたのです。
その朝のことを思いだそうとすると、不思議なことに、なぜか「パラレル」という言葉が浮かぶのです。
「上機嫌」な大人
「上機嫌な大人」が好きです。タレントで言えば、所ジョージさんのような人に惹かれます。自分の人生を楽しむことに、罪悪感を持たず、自分以外の誰の人生にも寛容で、肩の力を抜いていて、なんだかいつも楽しそうな人、あんな人になれたらいいのにと思います。
中学1年生の頃に担任だった男の先生は、明るい人でした。夏休みのキャンプで祖母山に登ったのですが、そのさい、先生がリーダーだったと記憶しています。山に登るのが好きな、活動的な先生でした。
サーカスの象は なぜ。
支配的な上司のもとで、管理されながら働くうちに、「ひとの言うことに従う」ことにすっかり慣れてしまい、なにかを自分で考えたり、決めたりすることを諦めてしまおうとしている自分がいます。ときどき、そんな自分に気づくことがあります。
子どもの頃、「親の言うことにさからうと、どんなにひどい目に遭うか」ということを、身をもって覚えさせられた子どもは案外多いものです。そんな彼らは、なにかものごとを選んだり、決めようとするたびに、心の中に棲む「神のような親の存在」に、お伺いをたてる癖が、なかなか治りません。かりに、自分の人生の大切な局面で、その癖が事態を混乱させたとしても、彼らがその呪縛から逃れることは、とても難しいのです。
それは、どこか「サーカスの象」の姿に、似ています。
「弱さの情報公開」について
オリンピック期間中、女子カーリングチームの観戦に熱中し、終わったときは、「さびしい」と感じました。勝っても負けても関係ないのです。彼女たちの笑顔や、互いに励まし合う姿を観ていると楽しかった。それがこの冬の、私への贈り物でした。
「感情を表に出し、積極的に悩みを打ち明けること。互いの弱い部分でつながること。『弱さの情報公開』をすること。」・・・ロコ・ソラーレの吉田選手が、自分たちのコミュニケーション力についてそう語っているとの記事を読み、おどろきました。
『弱さの情報公開』という言葉を、ここで使ったことに、じんわりとした驚きを感じたのは、私だけではないと思います。
『弱さの情報公開』、もしかしたら北海道の人々にとって、この言葉はもう共用語なのでしょうか。あるいは吉田選手は、これを機に、この言葉と、この言葉の発祥の地である北海道浦河町の「べてるの家」のみなさんに、敬意の光を向けようとしたのでしょうか。いっそ流行語になれば良いと私も思います。
『生前記憶』があるのなら
「生まれていないんだから 憶えているはずがない。」
みんなの思い出話にうなずく末娘の私を、たしなめるように父は言いました。
そのとき私の中に「じゃあいったい あれは何だったんだろう?」という困惑が広がりました。私の中には、確かな記憶があったからです。
挨拶「させる」大人たちへ
「おはようございます? うん! 良いあいさつだね!合格!」
「おはようございます? あれ? 声が小さいぞ!やりなおし!」
「おはようございます? ん?ん? おはよう ご ざ い ま す!!」
朝から、わざわざ腰をかがめて、うつむいた子ども達の視界に入るように、顔をのぞきこんで、子どもが挨拶をするまで、大きな声で繰り返す学校の先生たち。来るなり「ジャッジ」される、朝の子ども達。
不自然な光景です。
「シャットダウン」してみたら
金曜日の夕方、タイム・カードを鳴らして仕事場をあとにするとき、一週間分の記憶が頭に溜まっているのを感じます。今週も良く頑張りました。私なりに最善を尽くしました。えらいぞ私。思い通りに行かないこともありました。思いだすだけで腹の立つようなこともありました。私は自分にささやきます。「もういいよ。忘れよう。大したことじゃない。」そうして、無理やり「シャットダウン」するのです。仕事のことを休日に考えるのはもうやめよう、と。 “「シャットダウン」してみたら” の続きを読む
かろやかな時代へ
「自分レスキュー」置いとくね。
生きている。それだけでいい。何もなしとげなくても、誰にもほめられなくても、誰からも認められなくても、自分で自分を受け入れられなくても。生きていること、ただそれだけでいいのに。
風にふかれる葉っぱのように、窓の外を見る犬のように、ただ一日を生きることに専念する。それが本当は一番難しいのかもしれません。
コロナ時代と言われて、ずいぶん長いときが経ちました。蓄積していく「こころの疲れ」に、世界全体が苦しんでいるようなニュースが続きます。多くのひとが自ら命を絶つほどに、「ただ生きること」が難しい時代なのでしょうか。
「今日一日を生きるのがつらい」そう思った時期が私にもありました。
こころの水底に沈み込んでしまって、もう少しで死んでしまいそうな「仮死状態の自分」のところへ、酸素ボンベをつけて降りていき、自分のいのちを助け出すような心理的救出の経験が、私にはあります。
そんな自分の半生の物語である、このブログの前半部分をまとめ、加筆した本が、やっと完成しました。つむぎ書房さんの公式ホームページやアマゾン、また電子書籍などで2022年1月24日に発売されることになりました。
タイトルは「自分レスキュー」~あたらしい人生への扉~ となりました。
この時代の息苦しさに悩む、ひとりでも多くの人の手元に届いて欲しいと願っていますが、読んでもらえるかどうか、人に受け止めてもらえるかどうかは、実は私にはわかりません。
わからないから、ただ「置いとくね。」という気持ちでいます。置いておくから、良かったら どうぞ、という気持ちです。
窓の外はもう暗くなっています。冬至が近づいているのです。
何もしなくても、ただこうして日々を生きているだけで、私たちは充分許されている と気づいたから、風にふかれる葉っぱのように、窓の外を見つめる犬のように、ただ一日を生きることに専念してみようかな、と、この年の瀬に思うのです。
「素焼き」のころ
こねた粘土を、お皿のかたちにし、サンドペーパーで磨いたあと、いちどしっかりと焼きます。高温になった焼き釜が、何時間もかけてゆっくりとその温度を下げ、50度以下になるのを待って、やっととりだすことができるのです。
「素焼き」と呼ばれる、そのお皿たちを、一枚ずつ丁寧にとりだす作業が好きです。冷えた手をあたためるお皿のぬくもりと、すべすべの手触りが優しい、至福の瞬間です。
なにより私の目を惹きつけるのは、素焼きの色の、ほれぼれするような美しさです。 “「素焼き」のころ” の続きを読む
十代との「哲学対話」
「哲学対話」をしています。半年前から一緒に過ごすようになった彼らがどんな思いを持っているのかを、もっと知りたいと思ったことがきっかけです。
哲学対話のルールは、「何を発言してもよい」「他の人の発言を否定しない」「発言しなくてもよい」「問いかける」「言おうとして上手く言えず、黙ってしまう人がいても、促さずに待つ」「話がまとまらなくてもよい」「途中で自分の考えが変わっても良い」「わからなくなっても良い」「人を傷つけない」「答えが出なくても良い」です。 “十代との「哲学対話」” の続きを読む