人はなぜ、人を侮蔑し、攻撃するのでしょう。思うに、そうやって周りの人の注目を、少数の「悪役」に向けさせることで、多数派の自分たちの立場が盤石になり、より安全になるからだと思います。
つまり、「誰かをみんなで攻撃するのが上手な人」ほど、実は「自分への攻撃を恐れている人」なのだと思います。だから、真の敵は、自身の「不安」なのです。
7年8か月も続いた、長く暗いトンネルが、ようやく終わりを迎えます。国のリーダーだった彼を、どう評価するか、意見の分かれるところですし、当然良かったことも悪かったことも、両面あったと思います。
ただ、ふりかえるとこの7年8か月は世の中に「『嫌う』という感情」が急に増えた日々、という印象があります。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と自分の国民を指さし、国民同士を「敵」と「味方」に分けて、対立を煽るという場面もありました。「悪夢の」という言葉で時代の全てを貶めるというお手本を、日本中の子ども達の前で何度も見せました。同時にこの間「隣の国をとにかく嫌う」空気がじわじわと押し広げられたようにも感じます。
「誰かを悪者にする」ことが主流派のトレンドとなったこの7年8か月、この国を染め上げていたのは「嫌韓」「反日」という言葉に代表される、「負の感情」でした。それはヘイトであり、レイシズムであり、侮蔑の感情でした。
偶然でしょうか。政権への疑念が話題となりかけると、決まって蒸し返される「隣国への嫌感情」あるいは「隣国からの嫌感情」が、急にマスコミをにぎわせ始めたものです。より刺激の強い「負の感情」に私たちは何度も操られ、国内の、例えば少数弱者の犠牲などの問題をいつのまにか見失ってきました。
それら「負の空気」を吸い込まないよう、「負の感情」に染まらないよう自分を保つには、あまりにも長い長い日々でした。
「嫌う」「仲たがいする」という強烈なエネルギーは、私たちが本来持っているはずの「信じる」「認めあう」「受け入れる」という感情を、いとも簡単に塗りつぶしてしまいました。いつのまにか私たちは不機嫌になり、嫌い、嫌われていることを意識しあう時間が長くなりました。優しさや思いやりは冷たい嘲笑とともに隅っこに追いやられ、人道や人権を語ること自体が「理想家」とか「意識高い系」と揶揄される世の中になったように感じます。
暗いトンネルでした。
「嫌うこと」を強いられるのは、苦しいものですし、何よりそれを次の世代に見られていることを、大人としてつらいと感じてきました。
娘の幼なじみの友だちの中に、韓国人のお父さんと日本人のお母さんを持つ女の子がいて、よく遊びに来ていました。おっとりして優しい彼女は娘たちの人気者でした。里帰りをした彼女から韓国のかわいらしいお土産をもらい、子ども心に「いつか行きたい国」となったようでした。娘はそんな友だちを通して韓国に親しみ、10代になると、みんなでKーポップアイドルに熱中していました。学生のころはアルバイト代をためて、ソウルの街に遊びに行きました。そんな風に屈託なく育った娘達も、やがて社会人になると、世の中の「嫌韓の空気」を読みとり、「韓国文化が好きなことは、取引先では言わないようにしてる」と小さくつぶやくようになりました。好きなことを好きだと言えない世の中を、若い世代に手渡していることに、情けなさを感じてきました。
息子が高校生だった2009年と2010年の夏は、日韓交流事業といって、自治体の施策で若者同士のスポーツ交流での行き来が盛んに行われていました。夏休みに息子たちは韓国の家庭にホームステイをしながらバスケットボールの交流試合をし、翌年の夏には私たちが韓国の高校生を迎えました。暑い夏でした。韓国の高校生たちのユニフォームをコインランドリーで洗い、試合会場にとどけると、少しオーバーなくらいに喜んでくれて「日本のオモニに」と、整列して頭を下げてくれました。お土産にもらったチューブ入りのコチジャンが、信じられないほど辛かったことが忘れられません。暑い中で必死に闘いながらも交流の時間を楽しみ、言葉の壁を乗り越えて、互いに友情を深めていく高校生の姿を見守ったことを、昨日のことのように思いだします。
あのころの世の中には「他国を認め、受け入れ合う」という空気がありました。互いに過去の歴史を学びながらも、若い世代には、「わかりあうことを期待する」ような、自治体の施策がありました。
あの夏の記憶が、あまりにも遠ざかり過ぎて、世の中を覆うトンネルの時間が長すぎて、あれは現実だったのだろうか、と、ときどきうたがわしく思うことがあります。
海の向こうにも、自分と同世代の「いまを生きる若者」がいて、それを渡りさえすれば、自分たちはいつでも語り合い、分かり合えることの喜びを知った息子が、あれ以来さまざまな言語を学び始めたことを思えば、あの夏のできごとは、決して幻ではなかったはずなのですが。
2010年の夏が、まるで輝く幻のように思えるほどに、それからの日々は、私たちを追い込み、こころを重くする別次元の世界でした。
7年8か月の長いトンネル、私にはその言葉しか思い浮かびません。これを抜けた先に、どのような社会が訪れるのか、それも今はわかりませんが、せめてこれだけは書き残したいのです。
国と国とが、どんな歴史をたどり、政治的にも感情的にもいがみあったとしても、生まれてくる次世代の若者同士は、「ただ今を生きる」時間を共有し、輝かせながら互いの人生をわかり合おうとする、ということ、そしてそんな彼らの「生き方」や「ものの感じ方」に対して、ああしろこうしろと支配したり、まして「好きになるな、嫌え。」と強要することは、人として恥ずかしく、罪深いことで、未来に対して申しわけないことだということを。
韓国にルーツをもつ幼なじみと親しみ、韓国エンタメ文化を愛する娘のことも、日韓交流事業からの10年間で、アジアにも世界にも友人を作った息子のことも、私は誇りに思っています。私たちは日本人である前に、この星に住む地球人であることに、そろそろ気づくときが来ている気がするのです。