家から一キロ程離れたところに、牛を飼っている農家があって、我が家ではその家から生乳を買っていたようでした。二本のガラス瓶をローテーションしながら、毎朝生乳を引き取りに行くことを我が家では「牛乳とり」と呼んでいました。朝早く、空の瓶を抱えて一人歩きます。雨の日は傘をさして、雪の日は積もった雪を手で落として遊びながら、私は腹に瓶を抱えて歩きました。農家にたどり着くと、広い庭先に木の箱がおいてあって、その中に、牛乳をつめた瓶が並んでありました。私は持ってきた空き瓶をその中に入れ、牛乳の入った瓶を抱えて、もときたみちを歩き出します。落とさないように注意しながら家まで牛乳を持って帰るのでした。
ある日は大雨の上に雷が鳴り始め、傘の柄が金属だから「雷が落ちたら死んでしまうな」と思いながら歩いていると、さすがに上の姉が迎えにきてくれました。あの頃私が5歳だったから、長姉は10歳、小学校4年生くらいだったと思います。今思えば、どうして最年少の私に毎朝行かせて、姉たちはいかされなかったのだろうと不思議な気がします。姉たちは嫌がっていたのでしょうか。普通の子供ならこんな大変な仕事は、ひととおり嫌がるだろうと思います。嫌がらずに行き続けた私という子どもの方が、むしろ普通ではなかったのだと思います。
ときどき、私が早すぎたのか、農家の人が寝坊したのか、行っても木箱が出ていないことがありました。そんなとき、困り果てながらも私は、あきらめはしませんでした。なんとしても牛乳を持って帰らなければという思い詰めたような使命感に憑かれ、大きな声を出して家人を呼びました。
「おはようございますっ」「ごめんくださいっ」私は絶叫しました。それでも返事が無いとなると、絶望的な恐怖に耐え、意を決して、巨大な牛たちの顔の並ぶ牛舎を通って、家の中に足を踏み入れるのでした。数頭の牛たちの顔は幼い私には異常な大きさでした。しかも、私の姿を見とがめたものか、あの大きな裏声を発して鳴くのでした。私は足がすくみそうになるのをこらえ、農家の奥へとおとないつづけます。なんとかして気づいてもらい、ミルク缶の中から、今朝の生乳をじょうろで私の瓶に充填してもらい、それをもらって帰らないことには、家の敷居はまたげないのです。「やりとげなければゆるされない」という使命感に、私はとりつかれていました。
持って帰った生乳は、そのままでは飲めませんから、一度沸騰させます。
アルミの小鍋に移し、一口しかないガスコンロで牛乳を沸かします。こぼさないように見張って、ガスを止めるのも私の役割でした。
白い液体の中から、ぷつぷつとあぶくがわき上がってきます。表面が膜を張り、泡が盛り上がって、今にも吹きこぼれそうになる瞬間、つまみを絞って火を止めます。鍋の中を凝視しながらその瞬間を私は待ち続けました。目を見開きすぎて、目 がパリパリに乾いてしまいそうでした。
私は、なぜああも滑稽なくらいまじめだったのか、なぜと自分に問いかけてみてもわかりません。いつも私は自分自身を裁き、まだたりない、まだたりないと自分を追いつめていました。