今日の画像は、義母の作品です。彼女の目に映るこの世界は、きらきらと美しくて、そこから絵になるひとこまを切りとろうと、義母はいつも目を輝かせています。そんな彼女の生き方を、私は素敵だと思います。
先日、実の母のことを、1938年 とら年生まれだと、書いてみて、改めて気づいたことがあります。義母も、亡くなった伯母も、同じ1938年に生まれたのだ、という事実にです。つまり、3人の女性が3人とも、偶然1938年の、とら年生まれ、ということになります。そういえば、大好きだった「山の家の父方の伯父」も、1926年、昭和元年のとら年生まれでした。すべて偶然のお話です。とらはとらでも、生き方も、性格もまったく違う人たちでした。
生まれ年や星座宮と性質を結びつけるのは迷信だと思いますが、幼いときから「お前はへび年だ」「お前は『さそり座の女』だ」と言われ続けた私は、やはり自分の中に、なにか毒のようなものがあるのかもしれないと思いながら大きくなったのは事実です。そんなところに言葉の魔力を感じます。
同級生やひとつ年下の「丙午(ひのえうま)」生まれの友だちが、迷信からくるひどい言われようをして、嫌な思いをしながら大きくなったのを、私ははたで見てきました。実際、私たちの学年と次の学年は、学校のクラス数が変わるほどの人数減があり、「産み控えたから」などという言葉が、大人の口から漏れ聞こえてくる中で私たちは育ちました。生まれる年を選んで生まれて来た人はいないのに、生まれた年で差別されるなんて、本当におかしな話だと思います。この世には、「よけいなお世話」が多すぎると思います。
なぜ、人は、自分以外の人のことを、ことさらにジャッジしたがり、頼んでもいないのに「人のお世話を焼きたがる」のでしょうか。
最近、友人が、「請け売りなんだけどね」と前置きして、その答えを教えてくれました。
「自分の人生が満たされていない人は、なぜか人のことが気になって気になって仕方がない。だから、自分以外の人のお世話を焼きたがる人というのは、その人自身の人生が満たされていない不幸な人、ということになるらしいよ。だから、そういう人とは離れて、人生を楽しく生きている幸せな人を選んで付き合った方がいい。」ということでした。
その話は、私の中に、すうっと入りこんできました。職場でも、ママ友でも、クラスでも、家族や親戚でも、いつも誰かの噂をして、ジャッジしたりダメ出ししたり、支配しようとしたり、それが行き過ぎていじめやパワハラと言われる状態になったりする人たちというのはいます。そういう人は、どんなに環境が変わっても、行く先々で同じことを繰り返し、つねに誰かのお世話を焼き続けていくようです。けれどそれは実は、その人自身の満たされない不幸な人生に原因があるのだから、本人以外には治すことはできないというのです。
だから、そういう人にはなるべく近づかず、そうっと離れて、幸せな人とご縁を結んだ方がいい、ということになるのです。
人生はそんなに長くないから、「満たされない不幸な人」と、いつまでも関わっている暇はないのです。
残酷なようですが、やはり、私の実母を含めた、3人の女性について考えます。
私の実母は、残念ながら「つねに誰かの噂をし、お世話を焼きたがる人」です。亡くなった伯母は、「お世話を焼かれた人」ということになりましょう。そして、私の義母は「自分の好きなことをするのに精一杯で、人のお世話を焼く暇のない人」ということになるかもしれません。
同じ年に生まれた3人でも、その生き方は三者三様、全く違います。
こうして私がブログに向かい、好きなことを書き連ねているいま、夫は趣味の音楽仲間と集まって、来週の本番に向けて練習をしています。
義母は今夜も彼女の部屋で、キャンバスに向かって絵筆を握っているでしょう。
人生はそんなに長くないから、楽しむだけで精一杯、人のお世話を焼いている暇なんてないということを、彼女の背中は教えてくれます。
人に圧力をかけたり、支配したがる人というのは、この年になっても、毎年私の目の前に登場します。最初はいつも、その新たな登場に混乱し、困惑し、自分がとても弱くて無価値な人間であるかのような、不安な気分にさせられることもあります。
でも、やがてその混乱から落ち着きを取り戻し、よくよく見ると、そういう相手は、単に「満たされない人生を抱え、お世話を焼きたがる人たち」に過ぎないことに気づきます。さらにじっと見つめると、彼らはしだいに私のイメージの中で矮小化し、こころのなかの小さなスノードームに収まるほどの小ささになります。
「不思議の国のアリス」の中に、「大きくなるキノコ」という場面があります。そのキノコを食べると、アリスは巨大化して、周りの人々が小さく見えるのです。あの矮小化された人たちは何の寓意だったのでしょうか?いまの私には、かつて私に圧力をかけ、今はスノードームの中で小さくなっている、「お世話好きな人々」の姿にしか見えないのです。
そうは言っても、今の このこころもちにたどり着くまでには、苦しい日々もありました、あのころは「小さくなるキノコ」を食べたアリスの様に、巨大な人々が闊歩するこの世界のなかで、自分がひどく小さく弱く、孤独でありながら、罪悪感にまみれていました。このこころの苦しさから、私を救ってくれるなにかを探し続けていたのです。