カラダの声を聴く

やはり年齢は嘘をつかないのでしょうか。あの日を境に、腰や背中がキリッ、ピキピキ、と痛むようになりました。「あの日」とは、3年間つながった高校生を見送り、ふと孤独と自由時間を手に入れた、あの日です。まるで、長いこと私自身に無視されていた私自身の体が「待っていました」とばかりに自己主張を始めたようでした。

それを無視して、しばらくの間「だましだまし」生活していましたが、どうにも耐えられず、整骨院に行くことにしました。

整体の先生の見立てはこうでした。「55年間の生活と2回の出産による『ずれ、ゆがみ』が身体を圧迫しています」「骨盤が左に傾いて、体がよじれていますね。」

整体用のベッドに、うつぶせに寝かせられ、そんな風に誰か他の人に自分の身体を分析してもらっているうちに、関節の外れかけた整体見本になってしまったような、不思議な感覚に陥ります。その不思議な感覚のまま、55年間働いてきた自分の身体の歴史を、つらつらとたどり、思いだしていました。

そうかもしれません。そういえば若い頃のバレーボール時代の怪我で、右足首の靭帯は切れたままでした。長い人生、無意識に足をかばって生きるうちに、体がよじれ、左半身が必要以上にせりだした ということもあったでしょう。

整体マシーンを使って、体の骨の関節などを矯正することになりました。

「矯正は初めてですか?」と聞かれて、そうですと答えると、ちょっと驚いたような顔をされました。55年もの間、一度も車検をしないまま走り続けて来た老朽車を見るような顔でした。むしろ、よくも一度も体を整えないで、ここまで走れましたね、という顔でした。

思えば55年間、私は自分の「思考の命令」に従って、とにかく頑張って生き抜いてきましたが、その間、体の声を聴くことはなく、ひきずるように酷使しても、体は黙ってついてきてくれました。

それにしても、「ずれてる、ゆがんでる」って、「よじれてる」って・・、「左に傾いてる」って、・・・その言葉の上に『人として』という言葉を頭の中で載せてみて、自分の自虐ギャグに、自分ながらあきれておかしくなりました。おかしさがとまらず、うつぶせに寝かされたまま、くっくっと 誰にもばれないように、ひとりで、笑いと、痛みをこらえていたのでした。

コロナの時代のありようのひとつとして、人々が「世間の風評やデマから目を外し、ただ自分の『カラダと向き合うこと』が大切です」という人もいます。

自分のカラダの声に耳を澄まし、傷んでいるところに気づくこと、そこにしっかりと意識を向けて、できるかぎり癒すこと、とにかく、体の声を無視しないこと。

私にとっても、今がそのときだよ、整体に行って、ゆがみを整えてよ と、身体の方から教えてくれたのでしょう。そうしてそれは正解だったようです。

施術の帰り道の私は、ずいぶん痛みが遠ざかり、楽になっていたからです。しだいに痛みが増し続ける不安が消え、いつもの安心が戻ってきました。

しばらくの間、通院してみようと思います。長い間、私のために、文句ひとつも言わず、黙って頑張ってくれた私のカラダに向き合って、「ありがとう、これからもよろしくね」という思いを込め、少しゆっくり時間をかけて、メンテナンスしてあげたいと思うのです。

ありがとう。おつかれさまだったね。これからもよろしくね。

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