金曜日の夕方、タイム・カードを鳴らして仕事場をあとにするとき、一週間分の記憶が頭に溜まっているのを感じます。今週も良く頑張りました。私なりに最善を尽くしました。えらいぞ私。思い通りに行かないこともありました。思いだすだけで腹の立つようなこともありました。私は自分にささやきます。「もういいよ。忘れよう。大したことじゃない。」そうして、無理やり「シャットダウン」するのです。仕事のことを休日に考えるのはもうやめよう、と。
仕事の記憶を家に持ち帰り、何度も取り出して反芻したり、腹をたてたり、怒りを鎮めるのに苦心するのが、永年の私の習慣でした。私にとって「休日」や「余暇」の多くの時間を、「仕事のストレス」と向き合う努力に費やしてきたのでした。そして、来週からの仕事の段取りを考え、失敗しないように何度も何度も心で準備する「イメージワーク」を繰り返してきたのです。
こんな風にかつての私は「休日」を「仕事のことを考えて過ごす」ことに捧げてきました。今日という日は2度と来ないのに、「今日を楽しみ 今日を生きる。」ことをせず、「仕事に心を奪われて」過ごすなんて、思えばもったいないことをしてきたものです。
昔、学校の教室で授業をうけていた頃、クラスメイトの中にひとりは決まって「授業と関係ない勉強をしたがる人」がいました。かれらは先生の目を盗んで国語の時間に数学の勉強、数学の時間に英語の勉強をするのでした。
「いま・ここ」ではない何かが気になって気になって仕方がない、というタイプの人はいつの時代にも必ずいたように思います。神経症的な一種の癖だったのかもしれません。
実はそんな私自身も、ひところの「社会人でありつつ、母でありつつ、妻でありつつ、嫁でありつつ、娘でありつつ、ママ友でありつつ・・・。」という「マルチタスク」時代を過ごしたことで、かなり「神経症的な」状態になりました。ミッションに追われ、失敗を恐れるあまり、常に「段取り」をし、「反省」し、「怒りを鎮め」「失敗を想定」し、といった「ひとりPDCA」のスパイラルに陥って、「いま・ここ」を楽しむ余裕など、ほとんど持てませんでした。
仕事中に家庭のことを思いだし、家に帰れば、ずっと仕事のことを考えていた私。あのころ私が呆れていた「授業中に他の教科が気になって仕方がない」クラスメイトの姿と同じく、過度な緊張状態に陥っていたのでしょう。
けれど、さすがに私も年齢を重ね、それは無理だし無駄なことだと気づきました。記憶も反省も、永年の経験も、情報量が多くなりすぎました。今はもう 重くなってしまったパソコンのように、起動すら苦しい状態なのです。
考えることを止めるときがきたのだと知りました。「頭を使う」よりも「頭を使わない」ほうが賢いときもあるのです。
頭を空っぽにし、いちどシャットダウンしなければ、次のパフォーマンスが下がってしまうことにも気づきました。
家にいるときは、家を楽しみ、休日は休日を生きたいものだと思います。仕事のことは仕事の時間に考え、失敗したときのことは失敗したときに考えたいものです。
『ひとり反省会』や、『ひとりPDCA』を手放した私が得たものは、意外に価値のある「いま・ここ」の輝かしい休日の時間だったのでした。