「コロナ後の新しい世界」のために

今年も連休は家にいました。「何もしないで家にいる連休」が好きな私にとっては、去年と変わらない過ごし方です。

例年の連休中は、テレビや新聞、ラジオによって、満員の新幹線や、高速道路の渋滞を見せつけられ、身体はじっとしていても、人々の「へとへと」をもらい受けていましたが、今年はそれもありません。

私は一日中家で過ごし、晴れの日は晴れに感謝し、雨の日は雨を聴いて過ごしています。なにもないことが実は一番贅沢なことなのだと感じています。

年末よりも丁寧な掃除をしたり、いらないものを思いきって捨てたりしているうちに、だんだん家の中のいごごちが良くなってきました。過去の物を手放すことで、新しい空気が入ってくることを知りました。回収業の方や物流業の方、医療関係の方々への感謝もわいてきます。

「コロナ後の新しい世界」も、こうして、いろいろなものを手放した先に、訪れるのかもしれません。

私は、旅行や出張の多い人間でした。小さな旅行鞄と「お泊りポーチ」は、すぐに持ち出せるところに常備し、「10秒で旅に出る」ことができる状態にしておくのが好きでした。

スケジュール帳のあちこちに、自分が主催者という集会も、旅行の予定もありました。

それらの旅行やイベントをひとつひとつ諦め、いくつも手放し続けてきました。飛行機やホテルをキャンセルし、抑えていた会場におことわりの電話をかけました。なつかしい「予定」たちは、「コロナ前の遺物」として、イメージの世界に流れていきました。

この夏の予定、秋の予定、冬の予定も、半透明な姿で消えかかっています。

こうして、すべての「予定」や「計画」の数々を、手放した先に、「新しいコロナ後の世界」が、待っているのでしょうか。

それが、どのような日常なのか、今の私にはわからないし、誰にも正確にはわからないのだと思います。

ただ、今までの「当然」が、通用しない世界が訪れるかもしれない、ということだけは誰もが感じていると思います。

冠婚葬祭、伝統行事、前年度踏襲という、誰にも手をつけることのできなかった旧い世界も、変化していくのかもしれません。

それが、悪いことなのか、よいことなのかは、起こってみないとわからないし、その前に、良いとか悪いとかの評価すら無用なのかもしれません。

今の私にできることは、断捨離をして、新しい空気を取り込むスペースを作るように、過去の習慣や思い込みを手放し、新しい世界を受け入れる「余白」を整えていくこと、一度すべてを諦めることだと思います。

今年のGWに消費活動をほとんど行わなかった私は、なにひとつ「経済」をまわさなかったし、ほとんどの人々は、ただただ静かに暮らしていました。

今年の5月は、そんな人間たちをよそに、新緑の自然が、妙にいきいきとして見えます。

のびやかな緑が一日一日濃くなって、空は青く空気は澄み切って、花は咲きほこり、蝶が舞い、庭の鳥たちが、元気にさえずる声が聞こえてきます。なんだか地球が、ほっとしているような気がするのです。

 

 

 

 

 

 

 

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