家から一キロ程離れたところに、牛を飼っている農家があって、我が家ではその家から生乳を買っていたようでした。二本のガラス瓶をローテーションしながら、毎朝生乳を引き取りに行くことを我が家では「牛乳とり」と呼んでいました。朝早く、空の瓶を抱えて一人歩きます。雨の日は傘をさして、雪の日は積もった雪を手で落として遊びながら、私は腹に瓶を抱えて歩きました。 “牛乳をとりに” の続きを読む
風呂の焚きつけ
あまりにも愚かで、わざとらしい子どもだった私にとって、毎日は「名誉挽回を目指す日」の連続でした。
昨日の失敗を回復して、あまりある手柄をたてたい。そしていつの日か、父や母や姉たちに存在を認められたいと、毎日願って生きていました。
私一人の展示館(原風景4)
少し大きくなると私は、家の近くの空き地で一日をすごすようになりました。そこには大小の石が永遠に転がっていました。私はその石をけり、転がし、その石を芸術品のように見極め、ひとつひとつ拾っては、大切に、空き地と道路を隔てる、一段高くなったコンクリートの境界に、並べていきました。
へんな子ども
その居心地の悪さは、私におかしな空想癖をもたらしました。
もしかしたら、シンデレラの様に、みにくいアヒルの子のように、私だけがよその子なのかもしれない、私は、最後に幸せになるために今の苦役にたえるのだ。私は家のお手伝いを進んでする「よい子」になろうとし、なるべく母に気に入られるよう努力しました。普通の4歳児や5歳児では、考えられないほどの活躍ぶりだったと思います。
男の子を待っていたのに
1965年、二人の姉に続いて、私は三女として生まれました。
両親は、私のために、男の子の名前を用意して、楽しみに待っていたそうです。三番目の私が生まれたとき、女の子の名前を全然考えていなかったため、困って慌てて考えた、ということを、私は物心ついてから、何度となく聞かされました。
長い一日(原風景3)
ふたりの姉たちや近所の子どもたちは、朝になると大勢で集まり、幼稚園や小学校に向けて、にぎやかに出発します。一番年下の私は、かれらが出ていったあと みょうに静かになった家にとりのこされ、時間をすごしていました。1960年代、各家庭には、テレビも、電話もない、そんな時代でした。
そのころの私の記憶に残るのは、母の後ろ姿です。母は私に背を向けて、子どものための洋服を作ることに熱中していました。あるときは、編み機で作るニットカーディガンであったり、ミシンで作るワンピースであったりしました。そのころは今のように既製服がありませんでした。また「手作りのものを子どもに着せる心」や「その技術や熱心さ」のある母親ほど「良い母」として認められる、そんな時代でもありました。 “長い一日(原風景3)” の続きを読む
雪の記憶(原風景2)
九州の内陸部のその町に、私が生まれたのは、その頃の父の勤務地が、その町にあったからでした。
両親にとっては、長い人生のうちの、一時期住んだだけの町かも知れませんが、私にとっては、人生の始まりの地なのでした。
春はレンゲ畑、秋には刈干しの稲が広がる田んぼとそれらに水をはこぶ小川が、私たちの遊び場でした。私は、二人の姉と近所の子ども達と一緒に、いつも大勢で、群れて遊んでいました。