上野の森美術館でのフェルメール展が、今度の日曜日に最終日を迎えるそうです。2月から大阪で公開されるということです。
12月に東京でのフェルメール展に行きました。絵が大好きなおばあちゃん(義母)に喜んでもらおうよ、という、みんなの一致した意欲で、関東に住む息子も、関西に住む娘も九州に住む私たち夫婦も東京に集まり、美術館巡りをしました。久しぶりに家族が集まり、ひとときを過ごす、いい口実になりました。
上野の森美術館でのフェルメール展が、今度の日曜日に最終日を迎えるそうです。2月から大阪で公開されるということです。
12月に東京でのフェルメール展に行きました。絵が大好きなおばあちゃん(義母)に喜んでもらおうよ、という、みんなの一致した意欲で、関東に住む息子も、関西に住む娘も九州に住む私たち夫婦も東京に集まり、美術館巡りをしました。久しぶりに家族が集まり、ひとときを過ごす、いい口実になりました。
息子はイマドキの若者ですが、週末になると友人とアウトドア・キャンプに行くこともあるようです。あの子たちが小さいころ、我が家では、たびたびキャンプに参加したり、庭でバーベキューをしていました。他でもない私自身が、炎が好きだったためです。
子どもは夜泣きをします。
子育てをしていたころ、夜中に子どもに泣かれることが、一番怖かった。
なにしろ「夜泣き」って、原因はわからないし、いつまで続くか予想もつかないし、壁一枚しか隔てていないアパート暮らしだから、きっと近所迷惑になるとも思ったし・・・・。
姉たちとともにお話をきかせてもらっていた私が、ひどく心を震わせたお話があります。「マッチ売りの少女」でした。
お話を聴きながら、涙をぽろぽろとこぼす私に、周りはおどろき、ひいていましたが、私には恥ずかしさよりも、胸をしめつける「せつなさ」を、止めることはできませんでした。
祖母の記憶をたどると、手をあわせ、祈る姿が浮かびます。
彼女は、仏壇や道端のお地蔵さまにお花をあげ、祈りをささげる人でした。なぜそんなに「あの世」に心を寄せていたのか、そのころの私には理解できませんでした。
後年知ったことなのですが、彼女はその生涯で九人もの子を産んだにもかかわらず、死産や病気や事故で子を亡くし、無事に大きくなったのがわずか三人、つまり私の父と、父の兄、そして父の妹だけでした。そしてその唯一の娘も二人の子を残し30代でなくなりました。
モノクロの写真が一枚あります。田舎の家の縁側を背景に、大勢が写る家族の写真です。最前列の中央に写っているのは、4歳くらいの女の子、これが私です。夏の帽子を被り、ノースリーブのワンピースを着ています。その私をしっかり抱き寄せているのは祖母、少し離れたところに、父の兄である私の伯父が笑っています。ふたりとも、もうこの世の人ではありません。そして二人は、私の心の中では、私の理想の両親です。私はそう心に決めています。
「嘘つきは ドロボウのはじまり」。その言葉を、おぼえるころには、私にはもうすでに「嘘つき」という、不名誉な認定がされていました。
なんだか子どもの頃の私は、周りの人から、そう言って糾弾されることが、たびたびあったからです。
私は、まぎれもなく、嘘つきだったのでしょう。かまってほしくて、ありもしない空想のおとぎ話を、まわりの人に語っていたのかもしれません。
2019年の一月のこと。
ある朝、目がさめたら、空気がきりっと冷たく冷えていました。水道の蛇口を一番あたたかい方にねじって、お湯を出しました。手を包み込む温かいお湯の感触に、「ああ、ありがたい」という思いがわきました。
仕事始めの朝です。今日一日の仕事を思いました。私を待っている、必要としてくれる仕事場があること、仕事が終われば、ここにいごごちのよい住処があること、そんなことのすべてに「ありがたいな」という気持ちが、ある日の朝、ふっと心の中に、わいてきたのでした。
家から一キロ程離れたところに、牛を飼っている農家があって、我が家ではその家から生乳を買っていたようでした。二本のガラス瓶をローテーションしながら、毎朝生乳を引き取りに行くことを我が家では「牛乳とり」と呼んでいました。朝早く、空の瓶を抱えて一人歩きます。雨の日は傘をさして、雪の日は積もった雪を手で落として遊びながら、私は腹に瓶を抱えて歩きました。 “牛乳をとりに” の続きを読む
あまりにも愚かで、わざとらしい子どもだった私にとって、毎日は「名誉挽回を目指す日」の連続でした。
昨日の失敗を回復して、あまりある手柄をたてたい。そしていつの日か、父や母や姉たちに存在を認められたいと、毎日願って生きていました。
少し大きくなると私は、家の近くの空き地で一日をすごすようになりました。そこには大小の石が永遠に転がっていました。私はその石をけり、転がし、その石を芸術品のように見極め、ひとつひとつ拾っては、大切に、空き地と道路を隔てる、一段高くなったコンクリートの境界に、並べていきました。
その居心地の悪さは、私におかしな空想癖をもたらしました。
もしかしたら、シンデレラの様に、みにくいアヒルの子のように、私だけがよその子なのかもしれない、私は、最後に幸せになるために今の苦役にたえるのだ。私は家のお手伝いを進んでする「よい子」になろうとし、なるべく母に気に入られるよう努力しました。普通の4歳児や5歳児では、考えられないほどの活躍ぶりだったと思います。
1965年、二人の姉に続いて、私は三女として生まれました。
両親は、私のために、男の子の名前を用意して、楽しみに待っていたそうです。三番目の私が生まれたとき、女の子の名前を全然考えていなかったため、困って慌てて考えた、ということを、私は物心ついてから、何度となく聞かされました。
昨年亡くなった「さくらももこさん」。
心のどこかで、さくらももこさん=まる子は、私のともだちでした。 そんな風に思ってしまう人は、私だけではないと思います。 “ちびまる子ちゃんの三学期~まる子のおひなさま~” の続きを読む
ふたりの姉たちや近所の子どもたちは、朝になると大勢で集まり、幼稚園や小学校に向けて、にぎやかに出発します。一番年下の私は、かれらが出ていったあと みょうに静かになった家にとりのこされ、時間をすごしていました。1960年代、各家庭には、テレビも、電話もない、そんな時代でした。
そのころの私の記憶に残るのは、母の後ろ姿です。母は私に背を向けて、子どものための洋服を作ることに熱中していました。あるときは、編み機で作るニットカーディガンであったり、ミシンで作るワンピースであったりしました。そのころは今のように既製服がありませんでした。また「手作りのものを子どもに着せる心」や「その技術や熱心さ」のある母親ほど「良い母」として認められる、そんな時代でもありました。 “長い一日(原風景3)” の続きを読む