11歳のカレンは、落ち着いた性格の、優しい目つきの女の子でした。サラサラの金髪を私にあずけて「編み込みにして」とせがみ、 丁寧に編んであげると、合わせ鏡で、自分の後姿をながめて、うれしそうにしていたのを思い出します。
9歳のデボラは、巻き毛で、遠視用の眼鏡をかけていました。ひょうきんな性格で、サッチャー首相のものまねが得意でした。マイケル・J・フォックスが大好きな女の子でした。
そのころかかっていたマイケル・J・フォックスの「ティーン・ウルフ」という映画を一緒に見に行ったのですが、そのとき私が、「マイケル?」というと、デボラは「ミカエルだよ」と何度も訂正するのです。イギリス人には「マイケル」よりも「ミカエル」という発音で認知されていたのでしょうか?ともあれ、あのころ、若かりし頃のマイケル・j・フォックスは、イギリスのテレビ番組で人気のコメディアンとして定着していたのでした。
カレンもデボラもかわいらしい女の子でした。2人とも大人に憧れをもちながらも、子ども時代を満喫していました。
折り紙の折り方を教えて、とねだったり、好きな学校の先生の話を延々聞かせてくれたりしました。彼女たちの話の内容は、難しい単語が少ないので、私には丁度よかったのかもしれません。
しかもドロシーは、子どもたちに対して、何よりも「言葉遣い」を丁寧にしつけるので、私には きいているだけで学ぶものがありました。「子どもにもたせる財産は、美しい英語です」というイギリスの人の発想をきいたことがあります。「マイ・フェア・レディ」をひきあいに出すまでもなく、「ルックスよりも、持ち物よりも、何を言うか、どんな言葉づかいをするかが、その人をあらわす」という考え方が、深く根付いた国民だと実感しました。
ある夜、子どもたちと私をおいて、夫妻が演劇を見に出かけたことがありました。「9時には必ず寝かせてね。」という言いつけを、こっそり破って3人で夜更かししたときの、ふたりの少女たちの興奮を思い出します。共働きのドロシー夫妻にとって、私は都合のいい子どもたちの遊び相手でもあったのかもしれませんが、完璧なシッターではありませんでした。ときどき、いや、わりといつも、いいつけを破っていました。かわいらしい女の子のお願いには弱い私でした。
ドロシーは、そのころ流行っていたダイアナ・ロスの「チェイン・リアクション」が大好きで、よくリビングで歌いながら、くるくる回って踊っていました。デボラの剽軽さは母に似て、カレンのまじめさは父に似ていたようでした。
彼らは、週末には、あちこちの観光地に連れて行ってくれました。私のことを、たくさんの友人に紹介してくれました。別れ際のハグ&キッスを恥ずかしがる私を、日本人は本当にシャイなんだねえと面白がってくれました。けっこう酒好きなのがばれたころは「飲めませんから(笑)」とボケるだけで「ユーモアのセンスがあるのね」と大笑いして喜んでくれました。
「どこか、よその家の一員になる」という私の初めての経験は、「その家の人から大切にされる」というしあわせを連れてきてくれました。
そうはいっても 電話もつながらず、ラインもないそのころの海外では、日本語を聴くことも少なくて、さすがに少しホームシックにもなりました。
夜空を見上げると、オリオン座がかかっていました。こんなに遠く離れても、星座のかたちが同じであることが、あたりまえなのに不思議に思えました。
それを夜間飛行の光が横切っていきました。あの飛行機はどこに行くのだろう?みんなは私を忘れていないかな?と思うときもありました。そんなときに会いたいと 思い出すのは、大学のサークルやゼミの仲間 だったのでした。