「あ ふたりは 初めてだよね?この人は クラスの○○さんで○○中学出身。こっちは同じ中学出身の○○さん」・・偶然会った昔の同級生と、今の友だちを、初対面同士で「紹介」して引き合わせ「友だち」じゃなくても「友だちの友だち」として、「知り合い」にしてあげること、そうして「 ○○ちゃんの友だち? よろしく ××です。○○中学出身なら、△△知ってる?」と、両者の人間関係をどんどん広げさせてあげること・・・。
若い人に対して、そういう練習をすることをお薦めしています。時間があれば、ロールプレイングをしてでも、この「他己紹介」と「自己紹介」の技術を、より早い段階で、子ども達に備えさせてあげることが、いま、日本の子ども達の、喫緊の課題になっているような気がしてならないからです。「友だち」未満の「知り合い」が、この世にふわっとたくさんいる、という日常を用意してあげることで、子ども達はずいぶん生きやすくなるような気がするからです。
学校行事の季節になりました。体育大会(運動会)と文化祭をあわせた『○○祭』が、日本全国の学校で、コロナ対策をしながら短縮化、簡素化しつつ行われるのではないでしょうか。
行事の準備期間は、いつもの授業のように黒板の方を向いて過ごすのではなく、自由に、ランダムに過ごす時間が長くなります。実は、この「自由時間」が苦手だ、という子ども達が最近増えているのです。
「『自由時間』に、誰と話をすればいいのか気をつかいます」「友だちが他の人と話を始めると、自分が仲間外れにされたような辛い気持ちになります」「だから、授業時間のように、一斉に前を向いて過ごす方が楽なんです。」と、彼らは言うのです。
一緒に過ごす「友だち」の存在が、とても大切で、その「友だち」の手を放してしまうと、たちまち「孤独な時間」が襲ってくる、という不安を、かれらは抱いているようです。だからこそ、「友だちづくり」にあくせくとし、獲得した「友だち」を誰かにとられないように、必死になるのかもしれません。その努力が嵩じて、いつのまにか、誰かを退けたり、「新しい友だち候補」を寄せ付けないために、グループの結束を強化しようとして、新参者や、仮想の敵をことさらに悪く言ったりという努力を始め、それが、こころならずも「いじめ」に発展してしまうこともあるのでしょう。
「友だち」という固定化した関係がお互いを縛り、相手が風邪をひいて欠席することすら、自分の「孤立」につながり死活問題に発展する、これほど息苦しい、閉塞感に満ちた日常を生きている子ども達が 少なからずいるのです。
「自由時間」に 隣に座り、軽い会話を交わす相手が、別に「友だち」ではなくても、「友だちの友だちの友だちの知り合い」でも構わないという、ゆるい関係性を受け入れるような空気感が、学校の教室につくられたら、子ども達はどんなに楽になることでしょうか。
「ただの知り合い」がたくさんいれば「友だち」と喧嘩をしてしまったり、「友だちグループ」から仲間外れにされてしまっても、少しも孤独を感じずに、日常生活を過ごすことができます。そんな大学生のような、少し大人びた関係性を、子ども達にも持たせてあげることができれば、独特の息苦しさから解放してあげられるのにと思うのです。
科学者の中野信子さんは、その著書「ヒトは『いじめ』をやめられない」の中で、いじめ抑止のための一案として「子ども達の結束や、一体感を強くしすぎないようなしかけ」を提案しています。クラス競技や合唱コンクールで一位をめざしたりしすぎることが、集団の結束と「集団のルールに従わ(従え)ない人」への攻撃を助長するというのです。同じ著書の中で彼女が「だからこそ、学校行事の多い11月は、一年でも『いじめ』の起こりやすい時期」と指摘してもいるのです。これは、多くの日本の先生方が、意識しておきたいことかもしれません。
たしかに、クラス対抗で競っている期間、隣のクラスの子と一時的に仲たがいをすることがありますが、これは「作られた争い」に いかにヒトがコントロールされてしまいやすいか、ということを示しています。あえて「競争」を作ることで、集団への協調性やプロジェクト意識を育てるという教育効果がありますから、もちろん必要なことなのでしょうけれど、学校にも、職場にも、必ずある「いじめやパワハラ」に目を向けたとき、「そこまで追い込む必要があるのか?」と踏みとどまって冷静になるのは「競争や集団主義」に酔いしれる自分たちを、ふと客観視することのできる冷静な自分なのだと思います。
だからこそ、「所属」意識を少し離れて、「友だち」でもなく「親友」でもなく、「ただの知り合い」「ただの仲間」という、ゆるく軽やかな人間関係を、この世にたくさん用意してあげたい、この世はそんなに狭くないことを、日本中の子ども達に教えてあげてほしい と願うのです。