一日一日と秋が深まり、急な寒さの訪れた朝、目が覚めて、布団を這い出したものの、寒くてもう一度布団に戻りたくなる、そんな季節を迎えました。週末の度に、少しずつ冬支度をすすめています。
炬燵にも暖かい布団を着せました。いまどきの炬燵布団は、不思議な素材でできていて、ふわふわもちもちとしたあたたかい手触りに驚きます。仔猫か何かを触っているような、何とも言えない感触に、こころが癒されるのを感じます。
この家に移り住んだころ、畳に炬燵という暮らしかたが すでに珍しがられる時代でした。あのころは炬燵ではなく、床にソファを置く暮らし方が主流でした。「人をダメにする」とか「座ったら動かなくなる」といいながら、あえて炬燵のない暮らしを選ぶ人が多かったように思います。
そんな流れにさからって選び取った「炬燵のある生活」でしたが、私にとっては、大切な選択でした。
子ども達がこの家にいたころ、彼らは本当に、炬燵が好きでした。冬の寒い日、学校から帰ると、いつもこの炬燵に足をつっこんでいました。炬燵布団から小さな顔だけ出して、漫画の本を読んだり、おかしを食べたりしていた姿が懐かしく思いだされます。
炬燵でうたたねをすることもありました。だらしなくて行儀の悪いことではあるものの、家の中で思い切りくつろいだところで、誰に迷惑をかけるでもないし、そのくらい許されてもいいのではないかと感じていました。
夕方になると 家族4人が いつもここにいました。今日あったことを語りながら晩御飯を囲みました。あの頃は、携帯電話もインターネット環境も持たず、置いてあったテレビも沈黙して控えていました。家族それぞれが話し好きで、子どもも大人も、「自分の話を聴いて欲しい」と思っていたし「話を聴かせて欲しい」と思っていて、話題に尽きることはありませんでした。おもしろかったこと、友だちの話、変な先生の話・・子どもながらに一生懸命オモシロおかしく話してくれる、彼らの話を聴くのが、私たちは好きでした。
食事が終わっても、誰も炬燵をはなれませんでした。子どもが小さいうちは、トランプの「ババ抜き」や「神経衰弱」に、少し大きくなると「大富豪」に家族で熱中しました。発売されたばかりのボードゲーム「ブロックス」を 夫と息子が買ってきて、毎晩毎晩、何回も勝負をしました。家族で一番年下の娘は、やはり幼いためか、いつもボードゲームに負けて、悔しがって泣き出すのでした。自分自身も末っ子で負けてばかりだった私は、そんな娘が可哀想で、なんとか彼女を勝たせてやろうと身びいきの加勢をしてしまい、上の男の子に叱られていました。大人げなく勝ちにこだわり、夫も私も歓声をあげながら喜んだり悔しがったりしていたものでした。集中して考えているうちに、脳内が不思議なハイテンションに陥り、笑いが止まらないような気分になる夜もありました。どうしてあんなに熱中したのだろうと考えても、今はもうわかりません。
やがて子ども達は思春期を迎え、部活動で帰りが遅くなり、この世の厳しさを知るようになりました。荒れた教室、乱暴な同級生、強いられる競争、壊れた大人の姿、努力の実らない日々、負けた試合、誇りを傷つけられた日、暗い目をして帰ってきた彼らを、変わらぬやさしさで迎えてくれたのは、炬燵の温かいぬくもりでした。だまって炬燵にもぐりこみ、じっと考え込みながら、親にも言えないことを抱えていた日もあったようでした。
子どもがどんなに傷ついても、親としてしてやれることは少ないと、あのころに思い知りました。子どもの歩く先々に転がる危ない石を、親がどけてあげることはできない、彼らの傷つくのをただ見ていることしかできない、だからこそ 逃げ込む場所のぬくもりがあったことに、今はありがたさを感じています。
急に寒くなってきたこの季節、私の好きな人たちや、知らない街に住む誰かが、それぞれのぬくもりを、手にすることができますようにと願います。私にできることはないけれど、この星の北半球に住むすべての人が 冬の寒さに凍えることなく、それぞれの温かさを得られますようにと祈ります。
手元のスイッチを入れます。やがて足元が温まってくると、ああ冬が来るんだな という思いに包まれます。同時に、この部屋で過ごしたいくつもの時が、蘇ってくるのです。
鍋を囲んで家族でわいわい過ごした日々、友人を呼んでお酒を飲んだ夜のこと、さまざまな思い出に癒されながら、こころの底がじんわりとあたたかくなってくるのがわかります。
だから 私は深まる秋も、やがて来る寒い冬も、やっぱり 好きなのです。