サミシ カナシ 

夏の終わりの金曜日の夕方でした。近づいてくる台風にそなえて、ほとんどの人が早めに帰宅し、人の姿もまばらになりました。週明けの臨時のお休みも決まりました。本当は、以前から約束してあった彼女との練習も、早く切り上げて安全に帰宅させなければ、と思いながら、私は彼女を迎えました。

空にはりついたような「夏」という季節を押しのけるように、不安定な空気が強い風とともに迫ってくるのを感じていました。こうして夏は終わるのです。こうして「ひとあめごとに」季節が秋へとうつり行くことを、私たちは知っています。薄暗い夕闇が、昨日までとは全く違う季節の到来を教えていました。

ふと彼女の目から、涙があふれ出し、私は言葉を失いました。

数年の間に、あいついでご両親を病気で亡くした彼女は、私たちの心配をよそに、いつも穏やかな笑顔で「大丈夫です」と答えてくれていました。しっかりしてる、若いのに大人だな と実は感心していました。経済的にも生活の上でも、遺された彼女が困らないように整えて逝ったご両親の愛が、彼女を支えているのかな と思い、私は安心しきっていました。

そんな彼女のなかにあるなにかが、突然、音もなく零れ落ちるのを見つめ、私はただ 見まもることしかできません。

「ああ 本当は彼女は、」と、私は頭を殴られるように気づいたのでした。高校生の彼女が両親を見送ることの負担や、卒業や将来に向き合う重圧、コロナ休校や台風休校で、「日常が奪われ、友だちにも会えなくなること」への不安、愛してくれた人にもう二度と会えない、さみしさと悲しみについて。

無力な私は、今更気づいた自分に自分であきれながら、彼女のそばにいることしかできません。ただ、ティッシュをそばに置き、彼女の背中にそうっと手を添えて、その涙がはらはらと落ちていくのを見守ることしかできないのです。

「明るく、楽しく、前向きに!」いつも笑顔で、彼らを励ますことばかりしてきた自分自身を、今日は反省します。そこにある「さみしさ」を、無視しつづけることは、実はとても残酷なことだった ということに、ふいに気づかされたのでした。

「大人に反抗したり、食ってかかる若者の『怒り』の感情は、実は『偽物の感情』であり、本当は『さみしい、悲しい』という、自分自身にさえ無視された、やり場のない感情のことが多い」と、以前、心理士のはるさんに教わったことがあります。

「さみしい、悲しい」という感情の方が、実は「本物の感情」なのだから、それを無視せず、きちんと抱きしめて、「さみしい、悲しい」という思いのままに、涙が涸れるまで泣き尽くすことが、ほんとうは心には大切なのだ と。

そのときにはるさんは、こうも教えてくれました。「『悲しみ』は、『過去の自分』を癒すため、『怒り』は『今の自分』に寄り添うため、『不安や恐怖』は『未来の自分』を守るために、必要な感情だから、とても大切な感情だから、無視しないで大切に、まっすぐに向き合う必要があるのです」と。

「悲しみ、さみしさ、怒り、不安、恐怖」といった、ネガティブな感情を、まるでそこにないかのように無視して、どこかに押し込めて、いつもにこにこと ただ「前向きに」生きていくことは、実は決して自分を大切にすることにはなっていないことを、私は彼女から教えてもらっていたはずなのです。

それなのに私は、自分の周りにいる誰もに、つい「大丈夫!」とか「前向き!」という言葉の押し売りをして、こころに嘘を重ねる癖に、そんな自分のずるさに、今日はふと、気づかされたのでした。

「さみしいね」そう彼女の背中に声をかけましょう。そして正直に認めましょう。うつむいたまま、長いことこらえていた涙を流す彼女と同じく、私もまた「さみしさという罰」を受けていることを。

このコロナの時代の「愛している」からこそ会いにいくことができないという試練に まだこころが追いついていかない ということを。

コロナ禍で迎える、最初の秋が訪れます。「愛する人に会いに行くことができない」今のこころを浸すのは、まぎれもなく「さみしい」という感情です。この感情は、胸をしめつける痛みを伴って、ときどき私のこころにも暴力的に襲ってきます。ただ、この感情から逃れられる人は、実は今の世の中に あまりいないのではないでしょうか。

この秋に 世界中の人々の胸を、切なくしめつけるのは、おそらく「さみしさ」なのでしょう。その痛みを、私もまた、受けとる覚悟をかためましょう。

 

 

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