呼吸ができれば

夜、布団の中に入る瞬間、しあわせを感じます。それは「呼吸ができて、今夜も普通に眠るんだ。息ができるって、ありがたい」という思いです。あたりまえに酸素が体内に入ってきて安らかに眠りにつくことができる、なんて幸せなことだろう。ありがたい、ありがたい、とひとりで世界に感謝しながら、幸せな眠りにおちていくのです。

気管支喘息を発症したのは、大学の体育会女子バレー部の合宿中のことでした。自炊生活で栄養が偏っていたからかもしれません。厳しい練習で、体力が落ちていたせいかもしれません。あるいは合宿所の寝具の中に、アレルゲンがあったのかもしれません。私は、息が苦しいという、まったく初めての症状に混乱しながら、病院に行き、自分が気管支喘息という病気にかかったことと、呼吸困難というものの苦しさと恐ろしさを知りました。それからの日々は、常に喘息発作の恐怖と隣り合わせで生活しました。スプレー式の気管支拡張剤を始終持ち歩いていなければ、怖い、いつどこで、あの苦しみがやってくるかもわからないとおびえるような生活があたりまえになっていました。

泊まりの旅行が苦手になりました。例えば、仕事でよそに泊まるときが不安でした。夜中に呼吸困難の苦しみを感じて目が覚めてしまい、そこから、もう苦しくて苦しくて朝まで眠れない、ということがよくありました。長い夜をひとりで苦しみながら過ごし朝を待つのは、こわくて、さびしくて、つらいものでした。夜眠りにつくとき、枕元に気管支拡張剤を置いて、『今夜は眠れますように』と祈りながら眠る、というのが、毎夜の習慣でした。

20代の輝かしいはずの時期を、そのように私は過ごしました。社会人になっても、結婚しても、妊娠しても、母親になっても、呼吸の不安は、いつも私の隣にありました。

2人目の子が、お腹の中に宿った1995年の12月のことでした。その日はクリスマスで、外には雪が降っていました。2歳半の男の子を寝かしつけ、眠ろうとしても、息が苦しくて眠れません。安定期になるまでは、お腹の子どもに影響があるかもしれないからと、すべての薬を禁じられていた時期でした。気を付けていたつもりでしたが、風邪をひいてしまい、気管支喘息は悪化し、ついに私の容体は『重篤』の呼吸不全になってしまったのでした。

夜中の病院に運び込まれたとき、あまりの苦しさに、死がそこまで来ていることを感じました。「このままでは母体も危ないですから、お腹のお子さんへの影響はあっても、強いステロイドを投与します!いいですね!」とドクターが耳元で叫んでいるのが聞こえました。

「生きなければ、お腹の子にも会えない。お腹の子にどんな影響があらわれても、薬を投与してもらわなければ生きられないじゃないか。とにかく生きなければ。生きて、すべてひきうけよう」と、私は観念しました。

酸素マスクや点滴や、酸素量の計測器や、とにかく体中に管がたくさんついたまま、身重の私は入院生活に入りました。疲れ果てて眠りにおちると、深い海の底に沈み、息ができなくて苦しい、という夢を見ました。夜が明けて朝になると、看護師の女性がやってきて血圧をはかるために、「腕をあげてね」と私に言いました。ほんの10センチ片手をあげることが、できませんでした。それほど筋肉がだめになっている私に彼女は驚き、「本当にひどかったんやね」と、いたわってくれました。

重篤の呼吸不全で、いのちの危険があったことをきいて、家族がやってきました。実家の両親の顔を見ると、こころが不安になりました。だめな自分を責められている気がして、心配をかけていることが耐えられない気持ちになりました。

2歳半の男の子を連れて、夫が毎日見舞いに来ました。こわごわと私を見つめる息子の不安そうな表情は、いまも記憶に残っています。幼い息子が可哀想だと自分を責めました。こんなに弱ってしまって、未来に希望は持てないような気持にもなりました。仕事に戻ったり、スポーツを楽しんだり、日常生活に戻ったりすることすらできないのではないかと、感じていました。

大みそかが迫っていました。ドクターは、病院で安静に年を越すことを強くすすめましたが、私はそれを押し切って退院しました。年末年始を病院ですごすなんてありえない、と思いました。良い娘、良い嫁でありたかった私の義務感が、無理をして年末年始の「つとめ」をすることを迫ったのでした。血圧が低いために夫の運転する車の後部座席に横になって、私は長距離を移動して、両方の実家に帰ることにこだわりました。いま思えば、いったいなんであそこまでして年末年始の親戚付き合いや「母役割」「嫁役割」「娘役割」を果たそうとしたのかと疑問に思います。自分の体より大切なものは、ないのに。

そんな経験を重ねながら、次第に私は、目覚めていったのです。そのこだわりのばかばかしさに、まだらに気づき始めたのでした。

こんな危険な状態になったのに、なんで私は、周りの期待を優先しようとしているのだ?自分の体は自分で守らなければ、いったい誰が守ってくれるというのだろう?

不安な表情で私の病状を見守る子、生まれてくる小さい命、この子たちのために必要なのは、私自身が存在することなのに。

大きな病気をして、人が変わったように自分を大切にするようになる人がいます。世間体より、家族の評価より、自分のしたいようにすることを最優先にする、そういう「つきぬけた」人の気持ちが、私にもしだいにわかり、そして自分でも気づきはじめていました。

人生はそう長くない。なりふり構っていられない、という真実にです。

あれから、ずいぶん性格が変わりました。人の期待に応えるより、自分を大切にするようになりました。

40代になって、盆正月のおつとめに一生懸命になることをやめると、不思議なことに、私の長年の持病が、ぱったりと止んでしまいました。気づけば風邪もひかない体になり、どんどん健康になっていきました。

罹患していた気管支喘息も、いつのまにか完全に治ってしまいました。お守りのように四六時中身に着けていたスプレー式の気管支拡張剤も、もういつのまにか失くしてしまいました。今では、泊りの旅行がなにより楽しみになりました。

あの不安を手放した今でも、夜、眠りにつくときは「呼吸ができる幸せ」をこころのなかから取り出し、それを抱いて眠ります。

長年の気管支喘息の苦しみを、いま振り返ってみて、気づいたことがふたつあります。呼吸ができるということは、決してあたりまえではない、ということ。そして、自分のこころの声に耳を傾けることで、治る病気があるということです。こころを大切にすることで、私は呼吸を、酸素を、取り戻したのかもしれません。

今夜も、旅先のホテルでこれを書いています。ありがたい、ありがたいと感謝をかみしめて、今夜も眠りにつきましょう。

人生にはままならないこともあるけれど、それもいい。こうして旅ができるのだから、呼吸ができるのだから、と心にとなえながら。

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